極楽寺から眺める北の笠間峠、古代の東大寺領板蠅の杣。名張市赤目町。
2017年5月19日(金)。
極楽寺は赤目町一ノ井にあり、東大寺・二月堂のお水取り行事に、松明講と共同して760年以上もの長きにわたり、松明を送り続けている。
北に松明調進の道の途中にある笠間峠を眺める。山並みの向こう側は大和の国の板蠅杣とよばれる古代における東大寺の用材地があり、中世になると南麓側に東大寺領黒田荘が開かれることになった。
山並みの高さが意外と低いことが印象的だった。
極楽寺と大護摩が焚かれる庭。
極楽寺は現在は真言宗だが、後鳥羽天皇の時代に東大寺二月堂を再興した道観長者が開創したと伝える。
極楽寺。説明板。
松明調進は二月堂再興と併せて修二会(お水取り)に松明調進を始めたのも長者であり、長者亡き後はその遺言により、一ノ井の住民達によって引き継がれ、現在に至っている。
松明は、2月11日に松明山からヒノキを伐りだし、極楽寺境内で作られる。3月10日に松明の荷造り作業と法楽・練行供養・大護摩法要などの調進法要が行われ、3月12日に講の人々によって東大寺に調進される。昔は徒歩で東大寺まで運んでいたが、昭和8年からは電車を使って運ばれるようになり、さらに昭和63年からは徒歩と自動車で笠間峠を越えて奈良に運んでいる。こうして二月堂に納められた松明は、一年間保管・乾燥され、翌年のお水取り行法で使用される。
この行事は、一ノ井に住んでいた道観長者が、臨終にさいして、所有する田地を二月堂に寄進し、その所得で松明を作り、毎年修二会に献上せよと遺言したことに始まると伝える。
東大寺東南院に伝来する古文書中に、宝治3(1249)年3月の「法眼聖玄寄進状」があり、その中に「二月堂 六段 二七箇夜行法続松千二百把料田也」とあって、僧聖玄が伊賀国名張郡新荘内の田地六反を、お水取り行法の松明用に二月堂に寄進したことが記されている。聖玄は道観の末子とも言われ、同一人かはよくわからないが、一ノ井に残る伝承からも、この行事の起源は少なくとも宝治3年頃まではさかのぼることができそうである。
一ノ井は、かつて黒田荘の中にあって、東大寺とは、荘園領主・荘民の関係にあった。荘園崩壊後は関係がなくなり、社会が変化したにもかかわらず、松明調進行事は、一ノ井の人々によって今日まで受け継がれている。
丈六寺。名張市赤目町。
真言宗東寺派。大宝2(702)年の創建と伝える。古くは丈六の釈迦如来を本尊としたことから寺名となった。室生寺北門と称されている。
天正伊賀の乱により堂宇を焼失。慶長3年に本堂を再建。現在の本堂は寛政期の建立である。
丈六寺。説明板。
丈六寺石造五輪塔。東大寺を開山した良弁僧正(689~774年)の供養塔と称されている。
鎌倉時代の作品で、正応2年(1289)の刻銘がある。
東大寺領黒田荘の面影を残す五輪塔である。
丈六寺石造五輪塔。説明板。
北西の安部田にある名張市郷土資料館へ移動し、9時30分の開館を待った。