名張藤堂家邸跡。名張市丸之内。
2017年5月19日(金)。
名張藤堂家邸は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子となった高吉(1579~1670年、宮内少輔)に始まり、寛永13年(1636年)以来名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡である。1万5千石を津藩から給され、11代高節で明治維新を迎えた。
現存の建物は、宝永7年(1710年)の名張大火後に再建された屋敷の一部で、明治初年に建物の大部分が取り壊されたが、「御西」と称された中奥、祝間、茶室など日常生活に使用された奥向の一部と正門(寿栄神社へ移築)が残され、全国的に遺構の少ない近世上級武家屋敷の例として貴重な遺構となっている。
駐車場は交差点にあるが、一般利用が多くほぼ満車であった。夏見廃寺展示館との共通券を購入。
名張城沿革。
名張城は豊臣方への備えの必要がなくなると、取り壊された。
名張城時代の軒丸瓦。
名張藤堂家屋敷沿革。
藤堂高虎は、天正伊賀の乱で国外追放や農民となった元の土豪を無足人として取り立てた。
今治2万石の城代であった初代の藤堂高吉は1636年に移封されると、名張の高台の旧領主の筒井氏の家臣邸跡地に陣屋を構え、旧領今治より連れてきた商人、職人も城下に居住させ、名張の町の発展の礎を築いた。
名張藤堂家は藩内領主であったので、明治維新後の藩主東京移住に該当せず、そのまま名張に居住した結果、屋敷の一部が残った。
中奥。六畳間。
茶室。清閑楼。
13代高伸と学習院時代の学友であった三笠宮は昭和24年に、この清閑楼に宿泊した。
枯山水の庭。中奥から茶室方面。
羽柴秀吉・丹羽長秀の筒井順慶あて書簡。
祝間では、名張藤堂家に伝わった調度品をはじめ武具、典籍、文書など展示している。
釈文。
解説。
筒井順慶が洞ヶ峠に陣を取り情勢を見たことから「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれたといわれるが、順慶が洞ヶ峠に陣を取ったという史実は確認されていない。
鉄唐冠形兜。
名張藤堂家に伝来し、藤堂家から名張市へ寄贈された。
安土桃山時代の作で、高さ27.7cm、重さ約3.4㎞。鉄板7枚を打ち出して鉄留で唐の冠を模したもの。往時は長大な立物が挿入されていたことが推定される。正面と後面下方に銃痕が残る。
一の谷形兜。
名張藤堂家伝来。安土桃山時代の作で、高さ29cm、重さ約1.2㎞。鉄板5枚を鉄留で頭形に貼り合せた鉢に3枚の鉄板を山が連なったように取り付けたもの。
胴乱。鉄砲を使うために火薬・玉・手入れ道具などの必要な物を収納した。
火縄銃鉛玉。火薬入れ、口薬入れ。