夏見廃寺跡。国史跡。再現模型。夏見廃寺展示館。名張市夏見。
2017年5月19日(金)。
名張中央公園西側の夏見廃寺跡入口に夏見廃寺展示館があり、夏見廃寺の出土品や、金堂に装飾されていたとみられる塼仏などが展示されている。展示館では模型後方に金堂の一部が復元された部屋があり、金色の塼仏で覆われた壁からは淡い黄金の光が漏れてくる。部屋に入ると、金色の光に包まれて、感動を覚え、黄金を崇拝する心を実感した。
天武天皇の皇女・大来皇女(おおくのひめみこ、661~701年)が、父の菩提を弔うために建立した昌福寺と推定される夏見廃寺は、7世紀末に建立され、10世紀末頃に焼失したとみられる。
夏見廃寺跡。東(左)の塔跡、西(右)の金堂跡から、一段下の南西の講堂跡方面。
夏見廃寺は丘陵西南斜面にある地形的制約から講堂が金堂南西部に位置するなど変則的な伽藍配置となっている。
塔の初層は一辺5.3mの方形で、こじんまりとした三重塔が推定されている。
夏見廃寺跡。金堂跡から、一段下の南西の講堂跡方面。
1946年から翌年にかけて京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が実施された。東に塔、西に金堂を配した小規模な寺院跡で、金堂は奈良県海龍王寺の西金堂とほぼ同じ大きさの、たいへん小さなものであることが確認された。
その後、1015(長和4)年に編さんされた「薬師寺縁起」(醍醐寺本)に書かれている天武天皇周辺の皇族系譜に関する記述の中に、「大来皇女、最初斎宮なり、神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」とあり、「昌福寺」が伊賀国名張郡大字夏見にあったと記されていることから、これが夏見廃寺に当たるという説が発表された。
また、建立の目的を浄原(天武)天皇のためとするのはおそらく表向きで、本当は無実の罪により刑死した弟、大津皇子のためであろうとも論じられて、万葉集で知られる大津皇子の悲劇を背景にして、夏見廃寺は広く一般に知られるようになった。
出土した塼仏の断片に「甲午年」と判読される陽刻文字が確認され、これは694(持統8)年の干支に当たると考えられている。従来、寺の建立年代については決め手となる史料に乏しかったが、この文字?はそれを考える上で第一級の史料となるだけでなく、塼仏の編年を考える上でも非常に貴重である。これにより、塼仏の制作年は、この「甲午年」と考えられ、少なくとも寺院の主要部が持統期にほぼ完成していたことは疑いない。
夏見廃寺跡。南西の講堂跡方面。
講堂は、間口7間、奥行4間の規模の大きい南北棟であった。内陣の西半分はコの字型に一段高い須弥壇となっている。
講堂跡からは仏像の螺髪(頭髪の一様式)が出土しており注目される。長さ6cmあまり、最大径約4cmの、螺髪としては異様な大きさで、全国各地の白鳳寺院跡から出土する螺髪の中でも最大級のものである。
おそらく講堂に安置されていた仏像は、坐像でも像高2m以上の大きさであったと考えられる。かつてここに巨大な仏像が安置されていたことがわかり、また、その場所が、寺院の中心である金堂ではなく講堂であった点についても興味深い。
夏見廃寺跡。金堂跡。
金堂の礎石配置からは、奈良県桜井市の特別史跡山田寺跡と同じ身舎(もや)と廂(ひさし)がともに間口3間、奥行き2間という特異な建物であり、法隆寺の玉虫厨子の宮殿のような建物が建っていたと推定されている。
伊賀の見学を終え、伊勢多気の北畠氏館跡・霧山城跡へ向かった。