2017年5月19日(金)。
16世紀前半、室町時代後期、管領細川高国の助言により作庭された池泉回遊式庭園。
史跡は「多気北畠氏城館跡北畠氏館跡霧山城跡」として一括指定され、北畠氏館跡に付随する庭園跡が名勝に指定されている。
北畠氏は南北朝時代に南朝方の公家武将として伊勢国司に任命されて伊勢に入り、その後、室町~戦国時代を通じて、大和・伊賀・伊勢の国境に近い、大和と伊勢平野とを結ぶ要衝に位置する「多気(たげ)」の地を拠点として、伊勢国を支配した。
北畠氏館跡は、多気の中央に位置し、東・南・北の三方を川で、西を北畠氏の本城である霧山城から続く急峻な斜面で区画されている。館跡は南北約200m、東西約110mの台形状の地にあり、現在はその上段部が北畠神社になっている。
名張市の夏見廃寺跡から1時間ほどで着いた。12時30分頃だったので、受付のボタンを押して、少し離れた住居から呼び出した格好になった。入園料300円を支払い、入口の戸を開けて入園。
庭園の総面積は約850坪である。池の汀線が複雑に屈曲しているため、古くから米字池の名で知られている。
滋賀県朽木谷の旧秀隣院庭園と同じ様式で、16世紀前半に義父の北畠晴具を頼って、当地に逃れてきた管領細川高国(1484~1531)の助言により作庭されたと伝わる。
細川高国は永正5年(1508年)に前将軍足利義稙を将軍に復職させ、管領に任ぜられた。永正18(1521)年に将軍義稙を排斥し、足利義晴を将軍に擁立した。大永7(1527)年、甥の細川晴元や三好元長らに攻められ、義晴とともに近江に逃れた。その後も伊賀の仁木義広、越前の朝倉孝景や出雲の尼子経久らを頼って落ち延びていたが、享禄3(1530)年に婿で伊勢国司の北畠晴具の館に逗留した折りに庭園を作庭したといわれる。
細川高国は享禄4年(1531年)、細川晴元・三好元長らと戦いに敗れ、摂津尼崎の大物で自害した。
そのさい、庭園を詠んだと思われる「絵にうつし石をつくりし海山を後の世までも目かれずや見む」と言う辞世の句を北畠晴具に送っている。
東には、ゆるやかな築山に枯山水がある。中央に高さ約1.9mの孔子岩という立石が王者の風格を備えて立ち、10数個の石群が取り囲んで置かれている。
孔子岩を取り巻く石群はひれ伏すように、あるいはうずくまって教えを聴くように置かれている。
須弥山を模したとされる石組みの中央にある孔子岩は世界の中心を象徴しているという。
枯山水の石群はまとまった一つの姿で石組みを構成しており、周囲の山や水、緑の木々とよく調和しており、その技巧は高く評価されている。
1996年からの調査によって、北畠氏館跡は、北畠神社境内とその東側に広がっていることが確認された。遺構は15世紀前半に造成された前期と、15世紀末から16世紀初頭に行われた大造成後である後期の前後二時期に確認されている。前期には、全国的にみても古い時期の石垣や礎石建物・掘立柱建物跡、後期には、礎石建物・掘立柱建物跡がある。
15世紀前半の石垣。
大量の青磁や京都系の土師器皿、鎧の部品である小札や鉄製の錠前も出土した。
江戸時代初期の創建、主神は北畠家初代国司の北畠顕能で、北畠親房、北畠顕家らも祀られている。
社殿は1928年(昭和3年)に新造された。
拝殿に付けられている天狗の面が珍しい。
このあと、館の詰城跡を経て、霧山城跡へ向かった。