2017年5月19日(金)。
村上源氏流の公卿であった北畠親房は南朝の中心の一角を担い活躍した。親房の子孫は伊勢国司として、北畠政郷の代に戦国大名化し、北畠晴具(1503~63年)の代には伊勢国の南半分、志摩国、伊賀の南部、大和の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ広大な所領を有した。晴具の息子・北畠具教(1528~76年)の代には長野工藤氏を従わせて、北伊勢に進出した。
霧山城は南北朝時代初期、興国4年(1343)、親房の三男で初代伊勢国司の北畠顕能が築いたといわれ、9世代約240年にわたってこの城を拠点とし、南伊勢を治めた。多気は伊勢国と大和国を結ぶ伊勢本街道沿いにある交通の要所であると同時に、天然の要害であった。城下には3,500戸ほどが建ち並び、700人から1,000人の家臣が暮らしていた。
正長元年(1428年)から翌年にかけ小倉宮聖承が霧山城でかくまわれた。北畠教具のとき、文明16年(1484年)9代将軍足利義尚は伊勢神宮への参詣途上に霧山城に立ち寄っている。大永2年(1522年)連歌師の宗長が霧山城下を訪れている。
永禄(1558~1570年)末期に、織田信長が北勢に侵攻してきたため、北畠具教は霧山城に次ぐ要衝であった大河内城へ本拠を移し、霧山城には城代として北畠政成を置いた。
しかし、具教は織田信長の侵攻(大河内城の戦い)に敗れ、信長の次男・織田信雄を息子・具房の養継嗣として受け入れるという屈辱的な和睦を強いられた。
その後、具教は謀反を画策するが露見し、信長の命によって、天正4年(1576年)11月、多気郡の三瀬御所を攻撃され、北畠具教と北畠一族13人は殺害されて北畠氏は滅亡した。その直後、霧山城にも羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信らが率いる大軍が送り込まれ、城代の政成は必死に防戦したが、城館を焼き払われ、落城した。
霧山城は標高560m、南東約1.1kmの麓にある館からの比高240mの山の頂に築城された。庭園の裏から山道を登ると、標高400mの位置にある詰城跡を通る。急峻な尾根道をさらに登ると、山頂手前に鐘撞堂といわれる南曲輪群に出る。その先の山頂台地に北曲輪群がある。長さ120m×幅30mの範囲に北東郭と南西郭の2郭があり、北東郭は三方を土塁で固め、南西郭は北東郭よりも高い位置にあり、南北に土塁を築いていた。南西郭が城の本丸であったと考えられる。
庭園西上台地の井戸横から山道を上がっていくと10分ほどで詰城跡の帯曲輪Aに着いた。館跡との比高差は80mある。
眼下には北畠氏の東の城下町跡が広がっていた。六田館、景賞院などの痕跡が残っているという。
主郭である曲輪Bに行こうと思ったが、登り口が明確でないなどの理由で、そのまま山道を霧山城跡へ向かった。
詰城跡から北西方向に登ると20分ほどで南曲輪(鐘撞堂)群との分岐に着いた。主郭のある北曲輪群へ直行するため、巻道をそのまま進むと、数分で北曲輪群に着き、左の本丸跡へ直行した。
ヤマツツジが咲いていた。
下山開始。南曲輪群へ。
このあと、縄文時代の日本最古の土偶が出土した松阪市飯南町の粥見井尻遺跡へ向かった。