2017年5月19日(金)。
粥見井尻遺跡の見学を終え、国道368号線を東に進み、多気町の勢和郷土資料館と五箇篠山城跡へ向かった。勢和振興事務所の駐車場で一息つくと、東側の丘が五箇篠山城跡で、その西麓に勢和郷土資料館があるようだった。橋を渡って、緩い上り坂を登ると、図書館を併設した勢和郷土資料館に着いた。
多気郡の旧勢和村(現多気町)は、日本最古の水銀鉱山跡や弘法大師ゆかりの丹生(にう)大師が所在し、江戸時代の代表的な本草学者・野呂元丈を生み、国の登録記念物に指定された立梅用水が流れるなど、歴史文化が豊かな地である。
入館無料。水銀関係、立梅用水、野呂元丈などが紹介されている。
丹生鉱山(にうこうざん)は、多気町丹生にあった水銀鉱山で、中央構造線上に位置し、辰砂(硫化水銀)、黒辰砂、自然水銀、鶏冠石、石黄などを産した。
縄文時代から丹生鉱山とその近辺で辰砂の採掘が行われていた。
丹生鉱山に隣接する池ノ谷・新徒寺・天白遺跡からは、粉砕した辰砂を利用した縄文土器が発掘されており、辰砂原石や辰砂の粉砕用に利用したと見られる石臼も発見されている。さらに、40か所以上に及ぶ採取坑跡が付近から発見されており、辰砂の色彩を利用した土器製造と辰砂の採掘・加工が行われていたことが分かる。
丹生鉱山は室町時代後期までに生産が途絶えたとみられる。
1940年(昭和15年)に北村覚蔵が帰郷し、採取した辰砂を使用して水銀製錬の研究を行なったが、1948年北村は研究途上逝去し、再開発計画は中断した。
1954年北村の妻芳子と鉱山技術者であった中世古亮平が丹生鉱山の再開発に着手し、1955年本格的な操業を開始したが、鉱業権は大和金属鉱業(現・野村興産)に譲渡されて、稼働を続けた。
しかし、水銀公害が社会問題化して、需要が低迷し、1973年(昭和48年)11月30日に、丹生鉱業所は閉山した。
20歳のとき、京都に出て医学を山脇玄修に,儒学を並河天民,本草学を稲生若水に学んだ。享保5(1720)年幕府採薬御用となり各地を採集旅行した。西洋の学問のうち、実用的なものについては禁を緩め導入を図った将軍徳川吉宗の命により,元文5(1740)年青木昆陽とともにオランダ語を学び、毎年江戸参府のオランダ人と対談した。
オランダ人からドドエンスの本草書の存在を聞いて、日本最初の西洋博物学書ともいうべき『阿蘭陀本草和解』を著した。またヨンストンの『鳥獣虫魚図譜』の抄訳『阿蘭陀畜獣虫魚和解』も著した。そのほか『狂犬咬傷治方』『仏足石碑考』などの著書がある。
このあと、勢和郷土資料館すぐ東に登城口のある野呂氏の居城・五箇篠山城へ向かった。