五箇篠山城(ごかささやまじょう)跡。登城口。多気町朝柄。
2017年5月19日(金)。
五箇篠山城跡は旧多気郡勢和村朝柄の標高約140㍍の独立丘陵上に位置している。勢和郷土資料館駐車場の向かい側に登城口がある。遊歩道が整備され、容易に登ることができる。
五箇篠山城跡。説明板。
五箇篠山城は、野呂氏代々(波多瀬)の拠城であった。文永元(1264)年、野呂氏隆が上野国から篠山にきて、ここに城をつくったと伝えられている。
五箇篠山城跡。空撮。上は東。勢和郷土資料館。
城の防備の中心は丘陵頂部で、東西にのびる尾根をいくつもの堀割で区切って郭とし、その周囲を帯郭が取り巻く構造である。反面、急斜面が続く中腹部には防備らしい遺構はほとんど見られず、自然地形を巧みに利用していたことがうかがえる。遺構の保存状態も良好で、県内屈指の山城跡である。
五箇篠山城跡。測量図。
文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。康永2(1343)年、五箇篠山城は、当時伊勢守護であった仁木義長により攻撃されている。前年には同じく仁木義長により、南朝方の拠点田丸城・坂内城が相次いで陥落しており、五箇篠山城も程なく落城したものと考えられる。当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。
天正10(1582)年の本能寺の変にさいし、興福寺の別院東門院に入っていた具教の弟具親が還俗し、旧臣を募って、同年の冬、五箇篠山城に立て籠もったことで知られる。
天正4年織田信長により北畠具教をはじめ北畠一族の多くが誅殺されたのち、備後国に逃れていた北畠具親は伊勢に入り、五箇篠山城に籠城した。城への攻撃は翌天正11年正月一日に始まり、2日間ほどの戦闘で落城したという。
南北朝時代以降の五箇篠山城については、史料がなく、よくわからない。ただ、当時の史料には北畠氏の被官として五箇(ごか)景雅などの名が見えており、五箇篠山城を拠点とした在地領主であったと考えられる。その五箇氏も文明5(1473)年頃、北畠氏に背いたとして誅伐され、代わって野呂氏が入ったようであるが、「五ヶふる城」とあるように、城自体は長く放棄されていたものと考えられる。
西端の郭には土塁が巡らされ、虎口には、小さいながらも桝形も設けられている。また、一部には石塁も使われていた。時代的に見て、これらの防備は、北畠具親の籠城に際して設けられたとみられる。
本丸から北への眺望。
本丸へは5分ほどで着いた。
本丸からの眺望案内図。
本丸から下を見る。
本丸を東から見る。土塁が廻らされている。
本丸を東から見る。
城跡から南の眺望。ゆとりの丘方向。
周囲を山々に囲まれた盆地の中の独立丘に築かれた山城であることが分かる。
このあと、丹生の丹生神社、丹生大師へ向かった。