2017年5月20日(土)。
志摩観光ホテルは2016年5月26日・27日の先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)の会場になった。
作家の山崎豊子はこのホテルを贔屓にしており、「華麗なる一族」の冒頭「陽が傾き、潮がみちはじめると、志摩半島の英虞湾に華麗な黄昏が訪れる。」は、ホテル滞在中に日の入りの時刻を調べ、さまざまな場所から夕日を眺めることで書き上げた一文である。
西の五カ所湾から来たので、西端の賢島大橋方向から入島することになり、これが、志摩観光ホテルかと思った。通行量が少なかったので、橋の真ん中で停車することができた。
周囲は高そうな雰囲気がしたので、そのまま通過して東の橋を渡り、志摩国分寺へ向かった。
志摩国分寺周辺が、志摩国分寺跡として史跡に指定されており、門前に史蹟指定の石碑が立っている。
国分寺建立の詔を受けた志摩国は下国で経済力に乏しかったため、国分寺の建立および維持には、尾張・三河両国からの補填によった。809(大同4)年に志摩国分寺・尼寺の僧尼たちは、伊勢国分寺(鈴鹿市)に移され、しだいに衰退した。応仁元(1467)年、兵火により焼失したが、明応2(1493)年、一堂を現在地に建てて本尊を安置した。
現在の国分寺の本堂は、天保14(1843)年に完成した。
門前の駐車場に駐車し、坂道を登って山門から内側に入ったが、遺跡らしいものはなかった。
伊雑宮は内宮背後の島路山を越えた志摩市磯部町上之郷にある。伊勢神宮別宮14社のうち伊勢国外のものは伊雑宮(志摩国)のみ。また神田を持つ唯一の別宮である。
祭神は天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)。
皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに、「天照大神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。当宮は、10社ある内宮別宮の中で荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位とされる。
式内社(大社)論社で、志摩国一宮。志摩国一宮には鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)とする異説もある。
伊勢神宮の内宮を建立した倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)を探して志摩国を訪れた際、伊佐波登美命が出迎えた当地を御贄地に選定して伊雑宮を建立したとされる。
志摩一円の漁業関係者の信仰があつく、特に漁師や海女さんは「磯守(海幸木守)」を受け、身につけて海に入るのが風習となっている。
本殿は、内宮に準じ、内削ぎの千木と、偶数の6本の鰹木を持つ、萱葺の神明造。本殿周囲にある瑞垣と玉垣にはそれぞれの門がある。
駐車場から南西へ数百mほどの場所にある。
伊雑宮に奉納する米の田植えを毎年6月24日に行なう御田植式は、香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大御田植祭とされる。御田植式での伝承芸能は、磯部の御神田(いそべのおみた)として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
平安時代後期には行われていたともされるが、定かではない。信頼性の高い記録では鎌倉時代の1280年(弘安3年)の記録が神宮文庫に残されている。
このあと、伊勢神宮方面へ向かった。