Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

三重県伊勢市 伊勢古市参宮街道資料館 妓楼・油屋跡 麻吉旅館

$
0
0
イメージ 1
油屋の調度品。伊勢古市参宮街道資料館。伊勢市中之町。
2017520日(土)。
伊勢神宮は何度も参拝しているが、古市には来たことがなかった。伊勢古市参宮街道資料館前に駐車して、入館無料の資料館を見学し、街道歩きのガイドマップを入手したあと、有名な「伊勢音頭恋寝刃」の事件現場・妓楼「油屋」跡や麻吉旅館などを見て回った。
 
伊勢古市参宮街道資料館は、外宮と内宮を結ぶ参宮街道の歴史、参宮帰りの精進落としで賑わった遊里(歓楽街)、江戸と上方の役者の登竜門だった伊勢歌舞伎についての資料を展示している。
 
古来、伊勢神宮では、外宮を参拝してから内宮を参拝するのが習わしだった。外宮から内宮への道は、「古市参宮街道」と呼ばれた尾根伝いの道だけで、そこを多くの参拝客が往来した。古市の街は参拝後の「精進落とし」の場として妓楼(ぎろう)や芝居小屋が並び、歓楽街として大変なにぎわいを見せた。
全盛期の天明(178188)期には70余軒、遊女千数百人を数え、江戸・吉原や京都・島原と並ぶ遊郭としても知られた。中でも油屋、備前屋、杉本屋は古市の三大妓楼とよばれ、内部には舞台のついた広間があり、毎晩、伊勢音頭を唄い踊り、客への顔見世にした。
 
イメージ 2
遊女の煙草道具。伊勢古市参宮街道資料館。
 
イメージ 3
参宮土産。
 
イメージ 4
参宮土産。紙煙草入れの説明。
 
イメージ 5
日本最古の紙幣・山田羽書
(やまだはがき)
山田羽書は日本最古の紙幣で、1610年頃、神都伊勢山田(現伊勢市)の町衆によって生み出され、明治時代まで約250年間に渡り、神都伊勢周辺で流通した紙幣である。
「羽書」とは「端数の書き付け」に由来し、当初は銀貨による釣銭の代わりとして使用され、しだいに通貨として広まった。
 
イメージ 6
山田羽書。説明。
当時、関西地域では大型の貨幣が使われていたが、嵩む上に重く、不便であった。そこで、伊勢山田の商人たちは貨幣の代わりに金額を紙に書き、預かり手形として発行するようになった。
当初は地域的に何人かで組を作ってその中で流通させていたが、山田全体へと広がり、寛保2年(1742)には発行者は404人になり、銀一匁札に交換できる羽書だけで130万枚も出回った。また、羽書は山田のほか、松坂・射和・丹生・白子・一身田等でも発行されるようになり、県域外においても、山田羽書がもととなって全国で流通する商人札へと発展し、藩札の起源ともなった。
 
山田羽書は商人の個人的発行で始まったが、管理は早くから山田の自治組織である三方会合が行い、寛政2年(1790)以降は、幕府の出先機関である山田奉行のもとで、引き続き三方会合等がその業務についた。明治4年(1871)に、藩札処分により政府の全国統一の新紙幣と交換され、山田羽書は使われなくなった。
 
ガイドマップを入手したので、古市の街道歩きにでかけた。
 
イメージ 7
古市の街道筋。朝熊山の方向。
街道は丘陵地の尾根筋を通っており、江戸初期までは人家がなかったという。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも歩いた道である。
資料館から外宮方向へ、途中の備前屋跡まで歩いたが、石碑ばかりで、芝居小屋などの痕跡は残っていない。唯一、道路から東へ外れた麻吉旅館だけが、昔の面影を残している。
 
イメージ 8
妓楼・油屋跡。
左下は川ではなく、近鉄鳥羽線の線路で、落差は10mほどあり、驚いた。
油屋は歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)」のもととなった、油屋騒動の舞台として知られる。
 
寛政854日(179669日)の深夜、妓楼油屋で、青年医師の孫福斎(まごふくいつき)が、油屋のなじみの遊女お紺を巡って嫉妬に狂い、3人を斬り殺し、6人を負傷させた。この騒動はすぐに大坂に伝わり、近松徳三の手で、主人公の名前を福岡貢として「伊勢音頭恋寝刃」が作られた。当初は歌舞伎として上演されたが、後に人形浄瑠璃にもなり、現在でも歌舞伎と文楽の双方で人気演目として上演を重ねている。
油屋は古市の中でも規模の大きな店で、部屋持ちの遊女だけで24人を数えた。日本三大遊郭の一つといわれた伊勢古市の妓楼油屋で起きたこの事件は、伊勢参りに来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したという。
油屋は明治21年に旅館へ転業したが、一時は皇族・貴賓の宿も一手に引き受けるほどの盛況であった。
 
イメージ 9
麻吉(あさきち)旅館。
麻吉は古市丘陵の斜面に位置し、階段状の木造6階建てである。麻吉旅館は、江戸時代には多くの芸妓を抱えたお茶屋で、その建築様式は、清水寺と同じ、急斜面独特の「懸崖造り」で斜面に建つ木造6階建ての楼閣である。
 
イメージ 10
麻吉旅館。説明板。
「麻吉旅館」は嘉永4年(1851)創業とあるが、それ以前の天明年間(178188)の地図に出ていたり、文化3年(1808)に刊行された「東海道中膝栗毛」にも「麻吉」の名が見えているので、実際はそれより以前の創業とみられる。
 
イメージ 11
麻吉旅館。
玄関は4階に当たる。明治の始めころには、「麻吉」専用の芸者を30人ほど抱える県下一流の料理旅館「聚遠楼」として知られていた。
聚遠楼と呼ばれる大広間は36畳程あり、当時はにぎやかに伊勢音頭が踊られていた。
 
切り妻造り桟瓦葺き3階建ての土蔵から、最上部の寄せ棟造り桟瓦葺きの木造3階建ての聚遠楼まで、建物が階段や廊下でつながり。斜面上で56階に並ぶ。「名月・雪香之間」は、尾崎行雄が書斎に使っていたという。
 
イメージ 12
石畳の階段を下り、空中回廊となっている渡り廊下を見上げる。
 
このあと、外宮・内宮の順に参拝した。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles