田丸城郭縮尺模型。右が北。玉城町郷土資料館。玉城町田丸。
2017年5月21日(日)。
多気町五桂の「まごの店」で食事後、玉城町の田丸城跡へ向かった。三之丸跡に立つ田丸中学校校門前に駐車。田丸城跡を見学。のち、玉城町郷土資料館(村山龍平記念館)を見学。田丸城郭縮尺模型が展示されており、田丸城の沿革に関するリーフレットも入手した。
田丸城は、東西425m、南北454m、面積約16.7㎡、ほぼ五角形で西は高く、東は平地になっている。
田丸城郭縮尺模型の最下部は、外堀と大手門。その上が、現在の郷土資料館と玉城町役場で、江戸時代は代官役所。その上から丘陵となり、中央に三之丸。上部が北から北の丸、本丸、二の丸となって、石垣などが現存している。
田丸城。説明板。
田丸城は、玉丸城とも称し、室町時代は北畠氏庶流田丸氏の居城で、安土桃山時代は織田信長の次男・織田信雄が伊勢支配の拠点として築き、江戸時代は紀州藩の所領として久野氏が城代を置いた。
田丸城は、南北朝動乱期の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、熊野水軍の愛州氏や神官の度会氏などの援助を得て、標高50mの玉丸(たまる)山に築いて南朝方の拠点としたことが始まりとされる。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊(おおみなと)に通じる道に接する田丸の地は、軍事・経済の面からも吉野朝廷にとって要衝であり、参宮街道と熊野街道の分岐点でもあった。
玉丸城は北朝方に攻められ、興国3(1342)年に落城し、北畠氏は美杉の多気に拠点を移した。
永享12(1440)年、室町幕府と和睦した北畠氏は神領奉行として田丸城主を置いた。初代は愛洲忠行、2代玉丸政勝(北畠政郷の庶子、田丸氏初代)、3代田丸親忠、4代田丸国忠、5代田丸忠弘(直息)と続き、織田信長の伊勢侵攻後、田丸直息は田丸城を明け渡して織田信雄に仕えた。
天正3年(1575)、織田信雄は、伊勢支配の拠点とするため、玉丸城を近世城郭に改造、本格的な石垣を構築し、本丸・二の丸・北の丸を設け、本丸には三層の天守閣を建てた。
天正4年11月、信長の意向を受けた信雄の命により、長野具藤、北畠親成ら北畠一門の主だった者が田丸城で殺害された(三瀬の変)。天正8年に天守をはじめ主要部が放火されて焼失すると、織田信雄は松ヶ島城に拠点を移した。
天正12年小牧長久手の戦い後、蒲生氏郷領となり、氏郷の妹婿田丸直息が田丸城主に返り咲いたが、天正18年氏郷が会津へ移ると直息も奥州須賀川に移ったのちは、稲葉氏、藤堂氏の支配下に入った。
元和5(1619)年に、紀州藩の属城となり、徳川頼宣は付家老の久野宗成を田丸城城主とし、久野氏が城代を置き明治維新まで続いた。
城は、明治2年(1869)に廃城となり、同4年には城内の建物は取り払われた。昭和3年(1928)、国有林となっていたこの城地の払下げにさいし、郷土出身で朝日新聞創業者の村山龍平の寄付により町有となり、その後残りの城地も町有化し、町民に開放された。
田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されており、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども再度移築され、往時の面影を偲ばせる。
田丸城跡。本丸虎口。
田丸城跡。本丸虎口。
田丸城跡。本丸虎口と門跡。
田丸城跡。本丸虎口と門。説明板。
田丸城跡。本丸跡。入口。右奥(北端)に天守台。
田丸城跡。本丸跡。天守台。
天正8年炎上した田丸城は田丸直息、稲葉氏2代のうちに再建されたと推定され、慶安2年風雨で崩落した天守もこの頃の再建であろう。
元和2年以来、城主は在城せず城代支配に任された。久野氏は1万石の少禄で、古来の建物は崩壊に任せたと思われる。
田丸城跡。本丸跡。天守台。
天守台は17m×18mの規模で、高さは4m。内部は8m×10mの穴蔵造りとなっている。
田丸城跡。本丸跡。天守台から西南の眺望。
田丸城跡。本丸跡。村山龍平自筆歌碑。
村山龍平自筆歌碑の説明板。
田丸城跡。北の丸。入口の石垣。
北の丸は、本丸東虎くちから本丸下段をめぐる帯曲輪を経てつながる。帯曲輪との間は空堀となる。中世城郭に趣きを残す北の丸は、東面にのみ石垣を築き、他は土のままで、周囲に土塁を伴う。堀は外土塁からの深さが4~5mになる。
田丸城跡。北の丸。稲荷神社がある。本丸と違い、草木が多い。
田丸城跡。三之丸下の二の門跡と内堀。
玉城町郷土資料館に駐車して、城跡を振り返った。