2017年5月21日(日)。
永禄12(1569)年、松阪平野の西端にある大河内(おかわち)城をめぐる北畠具教と織田信長との攻防戦により、信長の次男信雄に北畠の家督が譲られた「大河内城の戦い」の舞台となった。
応永22(1415年)、南朝の伊勢国司北畠満雅が両統迭立を履行しない幕府に対する挙兵の際に、備えとして築城。弟の北畠顕雅を入れ、顕雅は、大河内氏の祖となった。
北畠氏からは大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称した。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所はたびたび幕府側に付き、宗家と対立した。そのため田丸御所(田丸城)・坂内御所(坂内城)・大河内御所・(大河内城)の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場であった。
大河内城の戦いは、永禄12(1569)年8月20日に北畠氏を攻略するため、織田信長が岐阜を出発して始まった。信長は、23日、前もって寝返りさせておいた北畠氏一門・木造(こつくり)氏の木造城(現久居市)に入り軍議を開いた。
一方、南伊勢を治めていた北畠氏は、信長に対抗するため本拠の霧山城(美杉村多気)から大河内城に移り、ここに一族郎党を集めて戦いに備えた。信長は26日に木造城を出て、大河内城へ向けて進軍した。
木造城を発った軍勢は、翌27日大河内城の北東桂瀬山に陣を置いた。兵力は織田軍5万、篭城した北畠軍7~8千といわれる。信長の取った戦術は、部隊を四方に分け、城の周囲を二重三重の柵で取り囲み、完全に外部との往来を断つというものであった。この戦いでは鉄砲が用いられた。また、当時信長に人質として預けられ、のちに松坂城主となる蒲生氏郷が初陣を飾っている。
総攻撃をかけてから、龍蔵庵口、魔虫谷の戦闘など多くの戦いがあった、大河内の城兵の奮戦で織田軍は有力な武将を失い、大変な痛手を被った。攻撃開始から二か月になるのに落城しないことに焦ら立つ信長は、城中に使いを送り、北畠具教が多気を去り隠居するなら自分の三男の茶箋丸(のちの織田信雄)を養子に遣すという和議を申し入れた。北畠方はこれを受け入れ、10月初旬両者は和睦して、戦いは終わった。この一大攻防の結果、本城は難攻不落の堅城と称賛された。
大河内城には、信長の次男北畠信雄が入り、織田信長の南伊勢支配の拠点となったが、天正3(1575)年、信雄は田丸城に移り、大河内城は廃城となって解体された。
標高110m余りの丘陵突端部一帯、300m四方の範囲内に建造され、東裾には坂内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷が巡って自然に要害の地を形成している。
城の縄張りは本丸を中心に北を大手口、南を搦手口とし、西に西の丸、東に二の丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切りや台状地が残る。
北の大手口からのルートが整備されたので、この案内図の順序でたどることにした。橋を渡り、右へ進むと、川沿いの道は軽自動車なら進めるように思ったので、駐車場へ戻り、車で進んだ。これが間違いで、200mほど進んだ民家の塀と川の土手の間が狭くなり、何とか通過できると突っ込んだところ、左のタイヤが塀下の段差を踏んで浮き上がった。車を停めて様子を見ると、右の川側はギリギリだったが、落差は2mほどで転落の危険がある。後退するのも危険なので前進し、何とか狭い個所を脱出した。ここは、車の通行には不向きで、人間の通行する個所であった。
大手口下の地点に着いたが、民家の軒先で駐車スペースはない。その先の保育園のあたりが適地なのだが、あいにく運動会のため、全く路駐スペースが周囲になかった。あきらめて、市民センターの駐車場へ戻り、徒歩でたどることにして、再スタートした。このため30分ほど時間を損失することになった。
道に草はあるが、歩行は良好。本丸跡へは5分ほどで着いた。
大河内城跡。本丸跡。説明板。
本丸北西部のマムシ谷が最大の激戦地であったという。
西蓮寺から歩いたほうが、舗装道なのでよいかもしれない。しかし、大手口から見学したほうが、城の規模を実感できるメリットがある。
14時30分ごろになり、松浦武四郎記念館へ向かった。