松浦武四郎記念館。松阪市小野江町。
2017年5月21日(日)。
大河内城跡の見学を終え、博物館の閉館時間を考慮して、松浦武四郎記念館、嬉野考古館、天白遺跡、阿坂城の順に見学することにした。
この地に生まれた松浦武四郎は北海道の名付け親として知られる。館内は撮影禁止であった。
常設展示はなく、2か月ごとに企画展が開かれている。このときは、「武四郎と文人たち」で、富岡鉄斎、河鍋暁斎、太田垣蓮月などの文人の絵画などが展示されていた。
モースやシーボルトのサインもあり交流の多彩さに驚かされた。
唯一、常時展示されており、驚嘆したのが、復元された「畳一畳の書斎」で、明治21(1888)年71歳でなくなる前年に、足腰の衰えを感じた武四郎は、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせて、たった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県まで、いろいろなところから古材が贈られてきた。武四郎は、この畳一畳の書斎を、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていたという。
この書斎は、東京都三鷹市にある国際基督教大学の敷地内に現存している。
30分ほど見学して、近くにある松浦武四郎の生家へ向かった。
松浦武四郎の生家。松阪市小野江町。
保存整備工事を行っており、見学できなかった。2018年2月25日から公開予定。
誕生地の前の道は伊勢街道で、四日市の日永で東海道につながっており、古くからお陰参りの旅人が多く行き交っていた。
武四郎が13歳の頃に起こった文政のお陰参りでは、年間400~500万人に上ったとされ、武四郎は街道を歩く多くの旅人に刺激を受け、旅を志すようになっていったと考えられる。
松浦武四郎の生家。完成予想図。
縄文時代の祀りの想像図。嬉野考古館。松阪市嬉野権現前町。
嬉野地域は、三重県中部を流れる主要河川の雲出川とその支流である中村川流域に位置している。
嬉野考古館は嬉野ふるさと会館の2階にある。予想と違って、新築のビル内にあった。入館無料。
貝蔵(かいぞう)遺跡から出土した日本最古級と考えられる墨書土器(複製)、釜生田辻垣内瓦窯跡(かもだつじがいとがようあと)出土の鴟尾(重文)もあるが、国史跡・天白遺跡の展示が充実していた。
天白遺跡の復元想像ジオラマ。
松阪市嬉野釜生田(かもだ)町にある縄文時代後期中葉から晩期初頭(約4500~3300年前)の祭祀場跡で、約1200年の間、営まれたとみられる。
雲出(くもず)川の支流である中村川が釜生田集落付近で大きく蛇行する左岸の段丘に位置し、遺構・遺物は東西90m、南北100mの範囲にわたり出土した。
遺構は、川原石を円形に並べた配石遺構が31カ所、土器埋設坑28カ所、焼土36カ所にわたる。土器・石器・土偶など祭祀関係の遺物も大量に出土した。
配石遺構は中部山岳地帯から東日本にかけて数多く見られるが、西日本でこれだけ集中的に存在するのはきわめてまれで、西日本では最大規模である。
土器棺墓や60点を超える土偶と岩偶(がんぐう)、水銀朱などの赤色顔料が付着した土器や石棒、石剣など祭祀遺物も数多く出土し、葬送儀礼を中心とした周辺集落の共同祭祀場と考えられている。
土偶。天白遺跡出土。
水銀朱が付着した石皿。天白遺跡出土。
赤色顔料が付着する遺物。説明。
鴟尾。重文。釜生田辻垣内瓦窯跡(かもだつじがいとがようあと)出土。
釜生田辻垣内に所在する5基の瓦窯のうち、2号窯から出土したもので、2基とも検出時に破砕されていたが、ともに完形に復元されている。
高さ148.6cm と124.8cmで、現存する鴟尾では最大級である。
完存する鴟尾は、県内はもとより東海地方においても皆無であり、白鳳時代(7世紀後半)の寺院装飾の姿を知るうえで、極めて貴重なものである。
鴟尾の説明。
中村川流域は県内でも、古代寺院が集中して建立された地域であり、仏教文化がいち早くこの地域に伝来したことを示している。
西の天白遺跡へ向かった。
国史跡・天白遺跡。松阪市嬉野釜生田町。
史跡公園になっている。
国史跡・天白遺跡。周辺案内図。
国史跡・天白遺跡。遺跡配置図。
国史跡・天白遺跡。南の配石遺構。北への眺望。
国史跡・天白遺跡。北の配石遺構。南への眺望。
このあと、阿坂城跡へ向かった。