阿坂(あざか)城跡。国史跡。松阪市大阿坂町。
2017年5月21日(日)。
標高312mの枡形山山頂部の双耳峯に築かれた山城で、南北300m、東西150mの範囲に、南北2つの郭が設けられ、北郭を椎ノ木城、南郭を白米城ともよぶ。台状地を中心に堀切り、土塁等が配されている。
阿坂城跡。説明板。
阿坂城は、南北朝期に国司北畠満雅が築城したといわれる。応永22年(1415)に北畠満雅が足利幕府に対して挙兵し、幕府軍を迎え撃った戦いが知られている。籠城する満雅は、馬の背に白米を流して水があるように見せて、水断ち作戦に出た幕府軍を欺き撃退したという伝説から白米城の別名がある。「南方紀伝」(江戸時代初めに成立)は伝える。
永禄12年(1569)、大河内城に拠る北畠具教を攻略するため、織田信長は8月20日岐阜城から7万の大軍を発し、その前哨戦として、木下藤吉郎に兵3千を与え、北畠氏の重臣大宮入道含忍斎ら兵1千の守る阿坂城を攻めさせた。北畠軍の抵抗も強く、大宮大之丞の射た矢が木下藤吉郎に刺さり藤吉郎は生涯初めての戦傷を左腿に受けたと伝わる。
苦戦の報を受けた織田信長は1万8千の兵の大軍を率いて阿坂城を包囲した。木下藤吉郎は近江浅井家の臣遠藤氏を使い、その親戚で阿坂城の家老遠藤氏を調略し、間道から道案内させて、山上に火を放ち、総攻撃をかけると、多くの城兵は大河内城や霧山城へ逃げ落ちて、阿坂城は落城し、そのまま廃城となった。
阿坂城には「両出城」があったと記されており、現存する小阿坂町の枳城と大阪坂町の高城跡と考えられているところから同時に国指定史跡になった。枳城跡は阿坂南曲輪に似た構造、高城跡は土塁と虎口のある堅固な造りである。阿坂城と枳城は南北朝期の特徴があり、高城は戦国期に改修されたことが明らかである。
阿坂城跡。案内図。
文明10(1478年)桝形山の麓に北畠材親の援助によって建立された北畠氏の菩提寺・浄眼寺に駐車場がある。ここから山頂までの比高は約250m、30分余りで山頂に着く。16時30分頃に登り、17時45分頃に帰着した。
南から登る登城道もあり、ハイキングコースとして整備されて登る人も多く、この時間帯でも子供連れやジョギングの人に出会った。
南郭(白米城)。切岸下の基底部から山頂までは比高が12mある。
北郭入口を通過して、山頂である標高の高い南郭を目指した。
南郭(白米城)。下の基底部から斜路を登る。
南郭(白米城)。主郭。
西隅に石碑が立っている。狼煙(のろし)台があったという。
背後に青山高原南端の山々を望む。その先には北畠氏の本拠である美杉村の多気御所・霧山城がある。
南郭(白米城)。
南郭は山頂を削平した東西25m×南北30mの楕円形をした台状地で、周囲の斜面を切り落とした切岸下45m×60mの基底部からは比高が12mある。
南郭は北郭のような複雑な防御設備はなく、南北朝期の築城とみられる。
南郭(白米城)。北東に伊勢平野方面。
南郭からは360度のパノラマが得られる。
南郭(白米城)。東に伊勢平野、松ヶ島城跡方向。伊勢湾方向。
北畠氏にとって、伊勢平野の動向を監視する重要な山城であった。
南郭(白米城)。南東に伊勢平野、松阪市街地方面。
南郭(白米城)。南に伊勢平野。
南郭(白米城)。北郭方向を眺める。南北の郭は200mほど離れている。
南郭を下り、北郭へ戻る。
北郭(椎之木城)。入口付近。左右(南北)に曲輪が細長く並んでいる。
北郭(椎之木城)。南側の曲輪へ進む。
北郭は帯曲輪をめぐらせた少し複雑な構造で、規模が大きく、堀切や土塁などで複雑に構成されていることから、戦国時代には北郭が主郭であったと考えられる。
北郭(椎之木城)。南側の曲輪から台地状の南郭(白米城)を眺める。
ここから20分ほど下って、駐車場に着いた。
向山古墳。国史跡。松阪市小野町・嬉野上野町。南からの遠望。
伊勢湾西岸のほぼ中央部、雲出川の南岸に沿いながら東に張り出した標高約50mの台地先端部に位置する全長約82mの前方後方墳。4世紀後半に築造されたと推定されている
1914年(大正3)に地主が発掘し、粘土槨中から、重圏文鏡や変形獣帯鏡など鏡4面、石釧、碧玉製車輪石のほか鉄刀や鉄槍などが発見され、東京国立博物館に保管されている。
嬉野地域の丘陵上には、前方後方墳の形態をとる前期古墳が集中し、県内でも特異な地域として知られている。古墳群の中で最大規模の古墳が向山古墳である。
丘陵の中の狭い車道を回りながら捜したが、古墳にはたどり着けなかった。暗くなってきたので、諦めて道の駅「津かわげ」へ向かった。