久居陣屋跡。津市久居西鷹跡町。
2017年5月22日(月)。
久居市街地から西へ行くと民家がまばらになり、狭い道路を久居中学校へ向かうと、体育館の西側に高通公園がある。公園の名は初代久居藩主藤堂高通から採ったものである。
明治初年までは陣屋といわれる平屋の御殿があったが、今は面影をしのぶものはない。
公園では、老人たちがグランドゴルフに興じていた。公園入口に説明板がある。
久居陣屋跡。説明板。
久居陣屋と城下町。
久居の歴史は、津藩初代藩主藤堂高虎の孫藤堂高通(たかみち)によって野辺野(のべの)とよばれる高台の野原に建設された城下町に始まる。
寛文9年(1669)に幕府から津藩の分家・城主格大名として認められた高通は久居藩を開き、寛文11年(1671)に入府すると永久鎮居の戦いを込めて「久居」と名付けた。
久居藩は初代藩主高通が5万石、2代高堅(たかかた)からは5万3千石となり、以後16代高邦まで約200年続き、久居藩4代・5代・7代・12代藩主は、宗家津藩を継いでいる。
久居陣屋の中心「御殿」(現在の久居中学校運動場中央付近)と、その北から東にかけて広がる武家屋敷(久居西鷹跡町・久居東鷹跡町)約200戸は溝で囲まれ、大手門(久居郵便局付近)と裏御門の2ヶ所で町屋(本町・ニノ町・旅篭町・寺町・幸町・万町)約500戸と繋いでいた。
高通児童公園はかつての久居陣屋の一角にあり、公園内には久居誕生(高通入府)250年を記念した「御殿山の記念碑」(大正10年建)、軽便鉄道開通に貢献した玉井丈次郎の顕彰碑などがある。
藤堂高通入府250年を記念した「御殿山の記念碑」(大正10年建)。
高通は城下町づくりに意を用い、雲出川を望む懸崖の地,野辺の高台の一角に居館を設計し,侍屋敷を配置,町割りを進めた。1年後藩主が入部したときは居館も板屋根であり,侍屋敷が約200戸,町家が約500戸という規模であった。
「御殿山の記念碑」(大正10年建)。部分。
高通は任口(にんく)と号し、北村季吟・湖春父子に学び俳諧をよくし、著書に『久居八百五十韻』がある。
久居陣屋の南西にある木造(こつくり)城跡へ向かった。
木造城跡。津市木造町。東からの眺望。
木造城は、貞治五年(1366)に伊勢国司北畠顕能の次男顕俊が築いた平城で、顕俊は木造氏を称して一志郡を支配し、木造氏は木造御所とよばれた。
木造城跡。
現在の城址は、享禄元年(1528)に木造俊茂が築いたもので、古城は南方300mのところにあったという。
わずかに残る城址は田圃の真ん中にポツンと残された小さな丘でしかない。
木造城跡。位置図。「久居城下案内人の会」リーフレットより。
城跡は国道23号線中勢バイパスの木造ランプの東にある。
木造城の城下図。天正12(1584)頃。リーフレットより。
本丸は北端にある。城域は南方の雲出川あたりまで続いており、土塁も残っている。
かつては沼などの低湿地に囲まれた要害の地であった。
木造氏の系図。リーフレットより。
伊勢の国司大名北畠氏の一族である。木造氏は他の北畠一門とは違って、明徳四年(1393)に足利義満が伊勢神宮参詣の時に、「北畠殿」と呼ばれ、さらに木造俊康は義満の烏帽子子となり叙爵されている。この時より、宗家北畠氏をはなれて将軍家に属することとなり、京都油小路に屋敷を建てて、「油小路殿」とも呼ばれるようになった。木造家当主は北畠氏の有力一門としてその官位は、北畠氏と同格の叙位をされており、大納言、中納言、参議、左中将など高い官位に任じている。
木造氏は北畠一門でありながら、足利幕府に仕え、北畠宗家に対して何度も弓を引いている。北畠氏に属したり、離れたりとめまぐるしいものであった。
明応6年(1497)9月、国司北畠具方は、大軍をもって木造政宗の居城木造城を攻撃した。戦闘は具方軍優勢で推移し、落城も目前となったとき、突如として安濃郡の在地領主長野政藤が木造城の後詰として参戦。具方軍は数百人もの被害を受けるとともに、叔父の大河内親文を失うという大敗を喫してしまう。
この内乱の発端は、明応4年10月、大宮勝直・高柳方幸ら11名の重臣が連署し、同じく北畠氏の被官であった佐々木秀盛・稲生光遠とその一族の生害や追放などを要求したことに始まる。そして、具方が大宮・高柳らの扶持を召しあげ追放したことから、彼らの不満は一気に爆発し、具方の異母弟師茂を擁立するという行動へと発展したのである。
師茂は木造政宗の娘を娶っていたことから、師茂擁立に舅の木造政宗が同調したことも、内乱を大きくする結果となった。このように、発端は被官同士の対立ではあったが、そこには、分家として極めて独立性の強かった木造家と国司家との反目のあったことは確かである。
合戦では大敗した具方であったが、その後、父北畠逸方(政勝)の調停で木造城を出た師茂が、北畠氏の本拠地一志郡多気で切腹し、内乱は一応の収束を見た。
しかし、木造氏との対立はその後も続き、文亀3年(1503)に、政宗の出家と木造城の接収によって、ようやく終結した。
享禄元(1528)年になり政宗の子の俊茂の代に古城の北に新城が築かれた。
当主が北畠具教の弟の木造具政になったとき、永禄12(1569)年に織田信長の伊勢侵攻が開始される。具政は北畠家の馬揃え祭の際に、馬番が田丸・河内・坂内の三大将の後という事に不満を示し、さらに信長に通じた源浄院(具政の子で滝川一益の養子となった滝川雄利)らにそそのかされて織田信長に通じ、宗家に謀反を起こした。宗家北畠軍は木造城を攻めるが、木造方の屈強な防衛と織田軍の援軍により苦戦し、信長の本隊が現われると撤退していった。
織田信長は木造城に入り、大河内城攻略の拠点とした。信長による平定後は織田信雄の家臣となる。本能寺の変ののち、天正12(1584)年、羽柴秀吉配下の蒲生氏郷軍が木造具政と子の長政が居城としていた戸木城を攻めた。籠城戦となったが、和睦して城を明け渡した。天正14年、信雄は秀吉により配流され、木造氏は員弁郡の田辺城に移り、この地から消えた。
その後、木造長政は信長の孫の織田秀信の老臣として配属され、美濃で二万五千石を領した。関が原の戦いでは秀信に東軍につくことを勧めるが、成らずに西軍として前哨戦である岐阜の戦いに出陣、負傷して岐阜城は福島正則らによって陥落した。合戦後、木造長政は、広島城主となった福島正則に招かれ、福島氏の家臣となった。
このあと、西進し、JR名松線家城駅近くの家城神社へ向かった。
家城神社。こぶ湯。津市白山町。
かつては諏訪神社と称していたが、明治末期、白山比神社を始め近隣の16社を合祀して家城神社と改称された。家城神社の裏の雲出川のほとりに、こぶの取れる霊泉として親しまれている「こぶ湯」がある。
最近は、難病に効くとこぶ湯を求める人がたくさん訪れている。
こぶ湯の伝説。
日本書紀に、盧略部連枳筥喩(いほきべむらじきこゆ)というこの霊泉を守る湯人の棟領を務めていた人の話が記され古くから霊泉の存在が知られていた。
こぶ湯。説明板。
こぶ湯。説明板。
こぶ湯。200mほど川沿いの道を進むと、雲出川の川岸に見えてきた。
こぶ湯。
階段があるので、ポリタンクはきついが、ポリタンを運んで軽トラに積んでいる人がいた。
私はペットボトルへ給水。
こぶ湯。注意書きによると、火・木曜日は家城地区の人のみに限られる。
こぶ湯。冷泉であるので、浴用・飲用に適す。
このあと、青山高原へ向かった。