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三重県津市美里町  国史跡・長野氏城跡 長野城跡 青山高原山頂三角点 

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青山高原二等三角点。津市白山町垣内。
2017522日(月)。
JR名松線家城駅近くの家城神社から青山高原山頂三角点へ向かった。青山高原といえば近鉄西青山駅から東青山駅へのハイキングコースで有名だが歩いたことはない。
標高756mの山頂三角点は頂上尾根道路脇にあるので、立ち寄ることにした。
11時ごろだったが、観光客やハイキング姿の人たちで賑わっていた。駐車場から5分ほどで、三角点に着いた。
 
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青山高原山頂三角点からの眺望。
伊勢湾が見えるはずだが、もやっていた。
 
このあと、ドライブウェイをそのまま北へ進み、津市美里町の長野城跡を目指した。
ドライブウェイ山頂尾根北の終点近くに自衛隊施設があることに驚いた。航空自衛隊笠取山分屯基地で、航空自衛隊入間基地の分屯基地として、レーダーによる警戒をしているようだ。
 
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長野城跡。国史跡。入口。津市美里町桂畑。
長野城は津市の西部、伊賀国境近くの標高540mの眺めのよい山頂に立地する。麓の集落との比高は360mあるが、桂畑から城のすぐ西まで林道が通っている。
桂畑の集落に入ると、道標がなく、道路がいくつか分かれていたので、近くの住人に尋ね、右側の道路を西進。しばらく走ると、右の城跡への分岐道標があった。林道を登るが、道路状態はおおむね良好。終点には数台の駐車スペースと簡易トイレがある。
 
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長野城跡。入口。
長野城跡は南北朝時代から戦国時代にかけて、旧安濃郡・奄芸郡(今日の津市から鈴鹿市にかけての一帯)に勢力をふるった長野氏(工藤長野氏)の山城跡である。
 
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長野城跡。駐車場から最高所の曲輪に登る。西下側の駐車場との間には
2本の堀切の痕跡がある。
 
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長野城跡。最高所の曲輪。
20m×40m1段高い台地にあり、まわりを階段状の平坦地が取り巻き、堅固な要害となっていた。曲輪の西・南・北には土塁があり、周囲の斜面には切岸が施されている。
城跡から尾根づたいに北西約300m離れた所には馬場と呼ばれる平坦地があり、その一角には湧水がある。
 
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長野城跡。切岸下から伊勢平野方面への眺望。
城跡からは伊勢湾はもとより、中勢南部の山々や平野が一望できる。送電線の鉄塔が近くにある。
 
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長野城跡。切岸下。史跡指定の石碑と説明板。
 
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長野城跡。説明板。
鎌倉時代に、工藤祐政(伊豆国の武将・工藤祐経三男)が伊勢平氏の残党の討伐のために、安濃・奄芸の2郡の地頭として長野とよばれたこの地に入って長野氏を名乗り、その子の祐藤が1274年(文永11)に長野城を築いたと伝えられている。
 
長野氏は史料上では「梅松論」の建武三年(1336)に「伊勢国の住人長野工藤三郎左衛門尉」と見え、南北朝時代(14世紀後半)には、足利尊氏方の有力な武士として活躍した。
このため、長野城は1346年(貞和2・正平1)に、南朝方の北畠氏に攻められて落城したが、1352年(文和1・正平7)に再び工藤氏が入城したとされる。
 
1360年(延文5)には、畠山国清らとの抗争に敗れて京都を脱出した伊勢守護の仁木義長がこの城に逃れ、幕府追討軍の六角氏頼・土岐頼康らに対し、2年以上も籠城戦を続けた。要害堅固なため、寄手がなかなか近寄れなかった、「太平記」に記されている。これが、この城に関する文献記録の初出である。
 
15世紀中ごろの伊勢国は、雲出川を境とし、南に北畠氏、北は安濃郡に長野氏、鈴鹿郡に関氏、三重郡に守護一色氏、朝明・員弁郡に幕府と関係の深い国人たちが結合して存在し、勢力の分布は安定していた。
室町幕府は北畠氏対策と守護勢力のけん制をはかり、将軍の権力を浸透させるために、北勢各地の有力武士を室町幕府奉公衆として直接の家来に取り立てた。
 
有力な国人であった長野氏も奉公衆に属しながら北勢各地の荘園にも勢力をのばし、雲林院氏、細野氏、分部氏などの一族を旧安濃郡各所に配置し、旧奄芸郡(芸濃町北部・鈴鹿市南部・河芸町・津市北部)にも勢力を伸ばしていった。応仁・文明の乱(15世紀後半)の頃には北伊勢への進攻を意図し、河曲郡や三重郡など各地で戦い、一時は桑名まで進出しますが、結局は北伊勢の国人たちを支援する北畠氏や近江六角氏の勢力に敗れ、北伊勢からの撤退を余儀なくされた。
 
長野氏は北畠氏と長年抗争を続けてきたが、1558年(永禄1)に長野藤定は北畠具教の子の具藤を養子に迎えることで和解した。
しかし、織田信長の攻勢が活発になり、1569年(永禄12)、長野氏は織田方についた分家の細野氏に攻められ、信長が伊勢に侵攻すると、長野氏は信長の弟・織田信包を長野氏の養子とすることで和睦。信包は長野信良を名乗り、長野氏の後継者となり、具藤は長野家から追われ、三瀬の変で謀殺された。
信包は1570年(元亀1)に上野城(伊賀市)を居城とし、それにともなって長野城を廃城とした。
 
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長野城跡。東麓の北長野集落から長野氏城跡から眺める。
長野氏の本拠地は、伊勢と伊賀を結ぶ街道の要衝である長野峠の麓にあった。
長野の地には、古くは五百野御厨(いおのみくりや),長野御厨など,伊勢神宮の御厨が置かれていた。笠取山と経ヶ峰の鞍部にある長野峠は,伊勢と伊賀や大和とを結ぶ地点にあった。
近世には伊勢の津と伊賀の上野を結ぶ伊賀街道が津藩領の幹線道路であった。
 
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長野氏城跡。国史跡。東の城・中の城・西の城。
北長野の伊賀街道沿いに、長野城と長野川をはさんだ標高200m前後の三つの連なる丘陵頂部に長野氏の居館であった城跡が残る。
長野城は、これら東の城、中の城、西の城の城跡とともに「長野氏城跡」として国の史跡に指定されている。
 
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長野氏城跡。案内図。
長野小学校の東側の丘陵尾根に東の城・中の城・西の城が築かれ、各郭郭台状地の三方には土塁を巡らし、さらに周囲には階段状の腰曲輪が設けられていた。
 
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長野氏城跡。中の城跡入口。
中に入ろうとしたが、ロープが特殊な結び方をしていたので、諦めた。
付近に、駐車スペースはない。旧街道に路駐せざるをえなかった。
 
このあと、近くにある榊原温泉へ入湯に向かった。

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