「イシ―北米最後の野生インディアン」 シオドーラ・クローバー,1961年原著、行方昭夫訳、岩波現代文庫、2003年。
イシ( 1860・1862年頃~1916年3月25日)は、アメリカ・カリフォルニア州に先住していたヤヒ族インディアンの最後のひとりである。
ル=グウィン(ゲド戦記の著者)の序文から。1991年。
「私の父で人類学者のアルフレッド・クローバーはイシを最も親しく知っていた人の一人であったが、イシの物語を執筆するのを望まなかった。一番大きな理由は心の痛みであろう。無数のインディアンの部族や個人が破滅させられ殺されるのを目撃せねばならなかったに違いない。
イシの物語を書くことになったのは、私の母シオドーラ・クローバーであった。
「イシ」はベストセラーとなり、今では万人の書となっている。本書が力となって、アメリカ西部史に関する人々の考え方は変化したし、また、一個のヒューマン・ドキュメントとして無数の読者を感動させてきた。
母のもとには読者から感謝の手紙が届いたが、そのほとんどすべてに「読んで泣きました・・・」と記されていた。それは理不尽な殺戮への恥の涙というだけでなく、悲惨さの中で美しいものに出会った喜びの涙だと思う。」
ヨーロッパ人と接触する以前のヤヒ族人口は3000人弱であったと推定され、カリフォルニア北部サクラメント近郊の丘陵地帯で3000~4000年前と変わらぬ原始的な生活を営んでいた。
白人が来た当時、カリフォルニアには約20万人21部族が住んでいた。
ヤヒ族は北米6大語族の一つホーカン大語族に属したヤナ語族の一部で、北部ヤナ、中部ヤナ、南部ヤナ、ヤヒの4部族が北から南に分布していた。
ヤナ族は勇敢さで知られ、南方平地のマイドゥ族からは恐れられたが、馬、火器をもたず、頭皮を剥ぐこともなかった。戦闘専用の道具はもたず、狩猟用具の弓矢、槍、刀、銛、石投器を使った。彼らは劣勢の場合、ゲリラのような奇襲戦術を用い、白人の攻撃から半世紀を生きながらせた。
主食はドングリの粉を粥またはパンにしたもので、ほかには鮭、鹿を生または干して食べた。
使用する単語の語形は男女で違い、男言葉は基本語根に1音節の語尾を加え、女言葉は逆に最後の1音節を省略した。
ヤナ族は村の近くの墓地に死者を埋葬したが、ヤヒ族は火葬をした、死者の国があると信じた。
暦は月にしたがった。
1844年メキシコ政府がこの地方での土地所有認可を乱発した。1848年、アメリカ政府が引き継ぐ。
1849年頃から、ゴールドラッシュとともに押し寄せた開拓者たちの組織的な虐殺や強制移住によって、同地のインディアン部族が民族としての体を失い、南部におよそ400人が残ったヤヒ族も1865年以降たびたび大規模な虐殺に見舞われた。
アングロサクソンは現在も当時も人種的偏見があった。白人一人に対しヤナ族は30~50人が殺された。1852年から67年の間、カリフォルニアではインディアンの子供を3~4千人さらって、奴隷としたり、安い下働きとして使った。白人がもたらした伝染病によりインディアンの60%が死んだ。
ヤナ族への殲滅方法は集団射殺、絞首によるものであった。ヤヒ族はこの虐殺に抵抗し、反撃した。家畜や食糧を盗んだり、納屋に放火したり、たまに罪のない女子供を殺したことは、総体的にみれば小さな仕返しであった。白人の家畜が飼育動物とは知らず、野生動物と考えた。私有という観念もなかった。
白人はインディアンの土地を自分の所有とすることを「正当な征服」という権利と信じた。最初の移住者の中には、「いいインディアンは死んだインディアン」だというスローガンを唱え、インディアンが知らなかった素早く頭の皮を剥ぐ技術をもっていた。ある男はベッドにインディアンの頭皮で裏打ちした毛布を使っていた。
ヤナ族の生き延びた人々は、あらゆる白人を理由のない殺害につとめる殺人者とみなした。白人の家畜や採鉱の泥により、食物資源が尽きたり、荒された。
1853年1頭の牛が盗まれた報復として、報復隊が25人以上のインディアンを射殺、縛り首にした。これが、集団虐殺の始まりだった。
1859年ヤヒ族を討伐できなかったため、マイドゥ族の集落を襲撃し、約40人射殺した。
1864年か1866年現地に残って白人の牧場で働いていたヤナ族はほとんど虐殺され、50人ほdぽが残っただけであった。
1865年8月白人女性が3人殺された。報復として無防備のヤヒ族の村を襲撃し、多数を射殺した。ことき、イシと母親が逃れた。その後も、ミル川沿いの村々が襲撃された。1867か68年に洞窟に追い詰められた33人が殺され頭皮を剥された。別の洞窟でも小児や赤子を含む30人以上のヤヒ族が射殺された。死体は洞窟から消え、火葬されたようだった。
1870年ヤヒ族の一行が襲撃されて3人が牧場で監禁され、解放をもとめてヤヒ族の12人が交渉に現れた。戦士5人が弓を差出し、和解の印としたが、ロープに驚いて逃げた。
イシはまだ子供であったが、このグループに属し、老人・子供を含めて15人が最後の集団で、のちに5人になっていったとみられる。
1884年から10年間ヤヒ族の略奪が再開された。食料事情が厳しくなったらしい。その後、最後の5人は移動し、川沿いのウォウヌポとよばれる熊の棲家跡に住居を作って生活に拠点とした。
5人はイシ、彼の母親、彼の妹また従姉妹、年老いた男と若い男であった。やがて、若い男が死んで4人になった。イシと妹が食料を確保した。1906年近くの鉱山にイシたちが侵入した。1908年11月29日電力会社の測量隊はイシと遭遇した。
翌朝、ウォウヌポ付近を捜索すると、老人とイシの妹が逃げて行く姿を見つけた。住居を捜すと、イシの母親が動物の皮やぼろ布の下にいた。
彼女の顔は深くしわが寄り、その白髪は服喪の印に短く刈り込まれていた。彼女の体の一部は麻痺しており、ふくれた脚には鹿皮の切れ端が巻いてあった。彼女は恐怖で震えていた。彼らが話かけようとしたら、彼女は幾分安心したのか、何か答えた。一人が脚を指してスペイン語で「ムイ・マロ」と訊ねると、「マロ・マロ」と繰り返した。隊員たちは、日常品や食糧すべてを土産として持ち去り、老婆を置き去りにして立ち去った。
翌朝もう一度立ち寄ると、老婆はいなくなっていた。
それ以来、イシは妹と老人を見つけることができなかったので、二人とも間もなく死んだものと、イシは思った。母親を連れて山に逃れたイシもまもなく母親の死を看取った。
1911年8月29日、ラッセン山麓の丘陵地帯にあった先祖伝来の土地を離れ、50歳前後の衰弱しきったイシひとりがサクラメント近郊の、オロヴィルの屠畜業者の囲いに迷い込んだ。
イシは耳たぶにシカの革紐を付け、鼻の隔膜には木の棒を差し込んでいた。
「イシ」はヤヒ語で「人」を意味する。ヤヒ族社会では自分の名前をみだりに他人に告げることはなく、彼の本名は知られていない。彼は部族最後の生き残りであり、本当の名は彼とともに葬られた。
この頃までに市民にとってインディアンは脅威ではなくなっており、イシは身の安全のために保安官に保護され、「原始人の生き残り」として大きく報じられた。その後カリフォルニア大学サンフランシスコ校に引き取られ、新聞王ハーストの母親の寄付により設立された同校の人類学博物館で1916年3月25日に結核で亡くなるまで穏やかな余生を過ごした。ここでイシは人類学者アルフレッド・クローバーとトマス・ウォーターマンらによって詳しく調査され、遺物資料の同定や作成方法の再現などヤヒ文化の再構築に協力した。
博物館では火起こし棒で火を起こしたり、黒曜石で鏃を製作し、鏃を参観者に進呈したりした。
イシの数の数え方は5進法であった。靴は数か月間履くのを拒否した。
イシは同時代の他のインディアンと同様、弓矢に熟達していた。彼を診療し、大学内で最も近しい友人の一人であった医学部教師で大学病院の医師サクストン・ポープは、とくにイシが作った弓と矢、そしてその弓術に関心を持った。弓を貼り合せる膠はサケの皮を煮たものである。ウォウヌポで使っていた矢筒はカワウソ一頭の皮で作られていた。
1914年はじめ、クローバー、ウォーターマンポープはイシに故郷で旅をすることを提案した。始めは嫌がったが、旅行を承知して5月に決行された。現地では1週間ほどキャンプ生活をして、イシは狩猟など以前の生活を楽しみ、その痕跡を教えた。
次の旅行をみなが期待したが、1914年に第一次世界大戦が始まって挫折した。1914年12月から結核の症状が現れ、1915年9月ごろから入院し、1916年3月25日に亡くなった。