歴史博物館。2013年1月20日(日)。バチャン村の見物を終え、ハノイ市街地北東のロンビエン・バスターミナルへ12時頃戻った。多数ある博物館のほとんどは月曜日休みなので、日曜日のうちにある程度見学する予定だった。タクシーを拾い、ハノイ国立博物館へ向かったが、途中で昼休みのため14時からということに気づき、歴史博物館へ変更した。ここならロンビエン・バスターミナルから至近距離だったので、大失敗だった。
タクシーの運転手が歴史博物館だという建物に着き、受付に行くと、ここは革命博物館で、昼は13時30分からだった。ベトナム語は読めないし、地理もまだ分からない。
幸い、歴史博物館は100mほどの距離にあった。歴史博物館へ行くと、歩き方では昼休みなしと書いてあるが、実際には昼は13時30分からだったので、万事休す。仕方なく、二つの博物館の間にあるレストランで昼食をとった。13時30分近くになり、すぐ近くの革命博物館から見学することにした。
タクシーの運転手が歴史博物館だという建物に着き、受付に行くと、ここは革命博物館で、昼は13時30分からだった。ベトナム語は読めないし、地理もまだ分からない。
幸い、歴史博物館は100mほどの距離にあった。歴史博物館へ行くと、歩き方では昼休みなしと書いてあるが、実際には昼は13時30分からだったので、万事休す。仕方なく、二つの博物館の間にあるレストランで昼食をとった。13時30分近くになり、すぐ近くの革命博物館から見学することにした。
銅鼓。革命博物館。ドンソン文化、2400年前。革命とは余り関係ないが、銅鼓が並ぶ部屋があった。ドンソン文化の時代は日本の弥生時代に相当し、銅鐸などと関連がありそうだ。
仏印に進駐する日本軍。1940年9月。ランソン省(ベトナム北部国境地帯)。
革命博物館はベトナム戦争、対フランス戦争が主な展示であるが、太平洋戦争時代の日本軍の取り扱いが気になった。Japanese fascist troopsと表記している。
革命博物館はベトナム戦争、対フランス戦争が主な展示であるが、太平洋戦争時代の日本軍の取り扱いが気になった。Japanese fascist troopsと表記している。
日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援蔣ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。そのため日本とアメリカ,イギリスとの対立が強まり,アメリカは9月26日屑鉄の対日禁輸を発表し,イギリスも10月18日援蔣ビルマ・ルートを再開した
南部仏印に進駐する日本軍。1941年8月3日サイゴン市内。
トンキン(ベトナム北部地方)の飢饉。1945年。フランス植民地主義者と日本ファシスト軍により引き起こされたと記している。
天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。
天候不順による凶作に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。
死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日のベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万とされている。
日本の軍政は戦局の悪化に気を取られ有効な対策を取ろうとしなかった。フランス政庁は日本軍からの指示があったとして過分な収穫米を強制的に徴収した。これは日本軍への反感を強めるのが目的で、集めた米をまとめて焼却、あるいは川へ投棄していたとの証言もある。
ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えかけた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼は失われ、ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった。
ベトナムの歴史教育では、日本軍が飢饉の原因とされており、この問題への対応は必要だろう。
ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は日本軍の強制調達にあると民衆に訴えかけた。フランスによる植民地支配からの解放軍として一定の支持を集めていた日本に対する信頼は失われ、ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった。
ベトナムの歴史教育では、日本軍が飢饉の原因とされており、この問題への対応は必要だろう。
ギロチン。1945年以前のフランス統治時代から、ハノイ市内のホアロー収容所に設置されていたもの。
1階・2階の展示を30分余り見学して、歴史博物館へ移動。
1階・2階の展示を30分余り見学して、歴史博物館へ移動。
石器類。歴史博物館。ハノイ国立博物館はハノイの歴史だけなのに対し、こちらはベトナム全体の歴史資料を扱っている。
中央下はお守り、右下は陶器整形用削りで、いずれも中央高地出土、4000~3000年前。
中央下はお守り、右下は陶器整形用削りで、いずれも中央高地出土、4000~3000年前。
銅鼓。2500~2000年前。
銅鼓。高さ63僉直径79.3僉ハノイ付近出土。
1288年の元軍との海戦と木杭。白藤江の戦い。
元のフビライは陳朝ベトナムへの二度の遠征に失敗し、1287年末に3度目の遠征を開始した。
1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍した元の総司令官トゴンは昇龍(ハノイ)を占領したが、すでに都城の住民が朝廷の「清野」策(焦土作戦)を実行していて、もぬけの殻となっていた。
元軍は、次第に守勢に立たされることになる。危機的な形勢に立たされたと判断したトゴンは、水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。
元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。陳国峻は白藤江の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。
1288年4月初め、元の将軍ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退した。懸命に追撃した元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だったとされている。
元軍の船団は慌てて退却したが、干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没するに至った。
さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させたといわれる。生き残った兵士は川岸へと逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受けた。元軍の水兵は全滅し、ウマルは生け捕りにされた。
元のフビライは陳朝ベトナムへの二度の遠征に失敗し、1287年末に3度目の遠征を開始した。
1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍した元の総司令官トゴンは昇龍(ハノイ)を占領したが、すでに都城の住民が朝廷の「清野」策(焦土作戦)を実行していて、もぬけの殻となっていた。
元軍は、次第に守勢に立たされることになる。危機的な形勢に立たされたと判断したトゴンは、水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。
元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。陳国峻は白藤江の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。
1288年4月初め、元の将軍ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かると、陳軍の軽舟が出撃し、すぐに負けを装って後退した。懸命に追撃した元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。ちょうど潮が引きはじめた時刻だったとされている。
元軍の船団は慌てて退却したが、干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれ、多くの船が壊れて沈没するに至った。
さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させたといわれる。生き残った兵士は川岸へと逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受けた。元軍の水兵は全滅し、ウマルは生け捕りにされた。
陶器。13~14世紀。陳朝時代。西北部ベトナム・ホアビン省。日用品。
陶器。11~14世紀。李朝~陳朝時代。日用品。
石碑。高さ134僉幅70僉1126年建立。北中部タインホア省。チャンパ及び中国宋朝の侵攻を撃退した指導者が寺院を寄進した記念碑。
亀が石碑を背負っている造形は日本にもよくある亀扶と同じ。
亀が石碑を背負っている造形は日本にもよくある亀扶と同じ。
青銅鏡。2~3世紀。副葬品。
木棺。長さ450僉幅77~57僉ドンソン文化。2500年前。北部ベトナム出土。木および鉄製。107点の副葬品は日用品、道具、楽器、武器など。
甕棺。南中部クアンナム省出土。2500~2000年前。サーフィン文化。
甕棺は弥生時代の北部九州に多く見られる。
甕棺は弥生時代の北部九州に多く見られる。
石碑。高さ330僉幅280僉K銘翩凜織ぅ鵐曠⊂福s嫩(レー朝)時代。1433年建立。
ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位 1428年 - 1433年)である黎利(1385年 - 1433年)の生涯を記している。黎利は、タインホアのラムソン(藍山)の豪族で、中国明朝からのベトナム独立を目指した1418年から1428年にかけての闘争を指揮した。
15世紀を代表する美術品とされる。
ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位 1428年 - 1433年)である黎利(1385年 - 1433年)の生涯を記している。黎利は、タインホアのラムソン(藍山)の豪族で、中国明朝からのベトナム独立を目指した1418年から1428年にかけての闘争を指揮した。
15世紀を代表する美術品とされる。
歴史博物館。偶然にも企画展「オケオ フナン」が開催されていた。
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)に栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家で、扶南の外港オケオはメコン川デルタにあった2~6世紀の港市遺跡。
国際貿易港として栄えたオケオからは寺院,住居などの遺構が発掘された。ローマの金貨2個(152年と156年のもの),大小の銀貨,多数の装身具類,梵語銘入り護符,ヒンドゥー教神像彫刻類,碑刻文など,インド系の出土品が数多く発見されている。
東南アジア史の古代史では必ずオケオ遺跡が紹介されているので、今回の旅行先に組み込んでいた。アンコールワットにつながるクメール文化の源流といえる。
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)に栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家で、扶南の外港オケオはメコン川デルタにあった2~6世紀の港市遺跡。
国際貿易港として栄えたオケオからは寺院,住居などの遺構が発掘された。ローマの金貨2個(152年と156年のもの),大小の銀貨,多数の装身具類,梵語銘入り護符,ヒンドゥー教神像彫刻類,碑刻文など,インド系の出土品が数多く発見されている。
東南アジア史の古代史では必ずオケオ遺跡が紹介されているので、今回の旅行先に組み込んでいた。アンコールワットにつながるクメール文化の源流といえる。
腕輪、耳輪。貝、ガラス、石製。BC5~1世紀。ホーチミン市出土。オケオ文化の源流はBC5~1世紀に遡り、サーフィン文化など周辺の文化の影響が見られる。
人面で装飾された黄金。BC5~1世紀。メコンデルタ・バクリエウ省出土。
人面で装飾された黄金。BC5~1世紀。メコンデルタ・バクリエウ省出土。
人間の形をした蝋燭立て。青銅製。4~6世紀。メコンデルタ・ティエンザン省出土。
黄金製の耳輪、輪。3~7世紀。
オケオ文化の出土品が100点ほどが展示されていた。
クメール文化とされることが多いが、この展示ではベトナム先住民の文化と表現している。カンボジアやクメール人に対して敵対的な感情があるためのようだ。
15時頃になり、ハノイ市街西部にある民族学博物館へタクシーで向かった。
オケオ文化の出土品が100点ほどが展示されていた。
クメール文化とされることが多いが、この展示ではベトナム先住民の文化と表現している。カンボジアやクメール人に対して敵対的な感情があるためのようだ。
15時頃になり、ハノイ市街西部にある民族学博物館へタクシーで向かった。