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名古屋城本丸御殿  玄関 表書院 対面所 狩野貞信

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名古屋城本丸御殿。車寄および玄関。南正面。
2018412日(木)。
ここ10年ほど話題になっていたが、来たのは初めてである。
 
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名古屋城本丸御殿と天守閣。
本丸御殿は、天守閣のある本丸のほぼ中央に南向きに建てられた。
本丸御殿は約3000㎡の平屋建ての建物で、高さは、一番高い所で約12.7m
 
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本丸御殿。入口。
入場前に見学時の注意の説明を受けた。常識のない見学者が多いようだ。
 
見学後の感想として。障壁画の復元模写で手一杯のようだが、展示にリアルさが欲しい。バーチャル・リアリティで徳川家光の対面式を見せるとかの工夫が欲しい。
現実に使われていた調度品などは尾張徳川家が管理する徳川美術館が所蔵しているが、複製の調度品を室内に並べるような努力をしてほしい。
 
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玄関一之間。内部北面。床。違い棚。竹林豹虎図。
虎の間とも呼ばれた本丸御殿の正式な入り口で、藩主に謁見する者が控える場でもあった。
 二室の襖・壁・障子の腰には金地に虎と豹が描かれている。なかでも一之間の襖の「竹林豹虎」や障子の腰貼付絵「三方正面眠り虎」はよく知られている。虎は戦国時代後期の武将に勇猛さを表すとして尊ばれた。
 
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玄関二之間。竹林豹虎図。
 
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表書院。
表書院は藩主と家臣などの正規の謁見に使用された。江戸時代には大広間と呼ばれ、上段之間から一之間・二之間・三之間・納戸之間にいたる広大な建築であった。
 表書院の部屋は、主に花鳥画で飾られている。一之間は「桜花雉子」が、三之間は「麝香猫」が描かれるなど穏和な中に雅趣のある雰囲気が漂っている。
 
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表書院。三之間。麝香猫図
(西側、左側)
 
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表書院。一之間と奥の上段之間。床(押板)。
床は松の図。一之間は桜花雉子図。
 
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表書院上段之間。床。違棚。帳台構(武者隠し、奥は納戸之間)。
梅と雉子図。
 
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上段之間。床。
床の袖壁には松の横に梅が描かれている。
 
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対面所。
藩主と身内などの内々の対面・宴席の場として使用されていた。上段之間と次之間の風俗図は有名で、洛中・洛外の年中行事や庶民の生活がいきいきと描かれている。
とくに次之間は、初代藩主義直の正室・春姫の故郷和歌山を描いた可能性があり、両人の婚儀がこの対面所で行われたとも考えられている。
 
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対面所。上段之間と次之間の画題。
 
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対面所。上段之間と次之間の主要画題。
 
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対面所。次之間。和歌山を画題とする。正面は製塩、片男波、和歌浦天満宮。左は紀三井寺方面。
 
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対面所。上段之間。床、違い棚、帳台構。田植・賀茂競馬などの初夏の景。
床は愛宕山。帳台構は賀茂競馬。
 
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対面所の二重折上げ小組格天井。
 
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天井の種類。
 
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対面所の二重折上げ小組格天井。
 
ここで、現在までの復元個所は終わる。本年68日に上洛殿などが公開を開始し、復元工事が完成するようだ。
二条城は江戸時代の雰囲気があるが、名古屋城本丸御殿は残念ながら平成の雰囲気しかなかった。

なお、欄間彫刻は復元されていないのではないか。
 
名古屋城本丸御殿の障壁画は、狩野派の当代の総領であった狩野貞信が慶長期に、狩野探幽が寛永期に制作を率いた。

狩野貞信は狩野永徳の孫にあたる。永徳の後を継いだのは長男・狩野光信と次男・狩野孝信で、狩野家の総領である光信が死去した時、その子の貞信はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。
 
狩野貞信(15971623)は、慶長19年(1614年)の名古屋城障壁画制作に参加した。若年ながら狩野家嫡流という血統の高さゆえ、本丸御殿表書院上段之間という最も格式の高い部屋を担当したとする説が有力である。
元和5年(1619年)に孝信も亡くなると、同年の内裏女御御所や、翌年から翌々年にかけての内裏小御所御亭(現在の妙心寺麟祥院障壁画)の障壁画制作に、狩野家総領として参加した。
 
貞信は若くして亡くなったため、現在確認されている作品は極めて少ない。その僅かな作品から画風を推測すると、金碧画では父光信の細部描写を継承しつつそれを更に繊細化、筆勢よりも彩色に重きを置き、一層和様化を推し進めた。名古屋城本丸御殿表書院上段之間に見られるモチーフの整理による画面の平面化、画面の枠を意識した構図などは、後の狩野探幽に引き継がれる要素が見られる。
 
狩野貞信は27歳で早世し、後継ぎがなかったため、孝信の三男の安信(永真)が貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになり、中橋狩野家(宗家)の祖となった。
孝信には長男・守信(探幽、1602 1674)、二男・尚信、三男・安信の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家の祖となった。
 
安信は探幽から見れば凡庸な才能と写ったのか、宗家を継がせて安泰を計ったといわれている。宗家は免許状の発行権利を有した。ほかに潤筆料、鑑定料などの稼ぎがあった。また、狩野安信は「画道要訣」で画論を展開して狩野派の理論的支柱となった。英一蝶も中橋狩野家の門人の一人であった。

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