涌翠閣Yu-Sui-Kaku。虎尾(こび)。水源路。
2017年10月12日(木)。
涌翠閣は歩き方に掲載されていないが、虎尾駅で入手したリーフレットを見て、神風特攻隊員が出撃前に歓待を受けた施設との記述があったので、興味が湧き、見学することにした。
雲林故事館から貸自転車に乗り、リーフレットの地図を参考にして北東方面へ街路を探しながら進むと、10分ほどでようやくたどり着いた。
涌翠閣は1939(昭和14)年に虎尾郡が建設した招待所で、役所や軍の賓客を接待するために建築された。1936年太平洋戰爭の準備として台湾総督府は虎尾飛行基地を造成した。これにともない,虎尾郡田中鉄太郎郡守が招待所の設置を計画した。
戦後は虎尾地方法院の宿舍となっていたが、2010年に雲林県の指定古蹟となり、2015年に修復が完成し、2017年春からは社団法人台湾芸術発展協会が管理運営している。
2017年11月11日正式に開館した。入場料100元。開館は11時からだったので、入場できなかった。美術系の展示が主体で、喫茶コーナーもある。
虎尾大水塔のある丘が右側に見える場所の、道路を隔てた左に涌翠閣の日本式建築が現存している。
八角形の虎尾大水塔も日本統治時代の1930年に建設された。高さは50m。
涌翠閣。
規模の大きい書院風の建物である。
戦前の虎尾には日本海軍の航空基地が設けられていた。虎尾海軍航空隊は太平洋戦争開戦後の航空要員大量養成のため、初歩練習部隊として虎尾街郊外の現・建国里に昭和19年5月15日に設置された。
虎尾空は予科練の卒業生に初歩練習を施す練習航空隊で、実機教育も機材・燃料・人員の枯渇によって困難になった上、天号作戦・菊水作戦に備え、台湾の海軍飛行場には実施部隊の展開が推進されることになり、虎尾の訓練部隊は諸施設を実施部隊に譲渡することになったため、昭和20年2月15日に解隊された。一部の残留者は台湾海軍航空隊に編入され、天号作戦・菊水作戦に参加した。放棄された機体は、台湾部隊で編成された特攻隊「忠誠隊」に転用された。
虎尾空では約500名が、「赤とんぼ」(93式中間練習機)での訓練を受けた。虎尾には大日本製糖会社があり、ガソリンがなかったので砂糖から精製したアルコールで飛んでいた。
シンガポールから転戦してきた航空隊が、残存していた布張り複葉の赤トンボに250Kg爆弾を装着して特攻出撃を敢行した悲劇の舞台でもあった。
訓練生の証言では、「帽子を振っての特攻隊の見送りはよくやった。夜トイレの裏で出撃前夜に先輩がお母さんと叫んで泣いているのを見た」という。
涌翠閣と大水塔。
時間も少なくなったので雲林布袋戲館へ向かった。
雲林布袋戲館(旧虎尾郡役所)。
虎尾郡役所は1922(大正11)年に落成したイタリア風赤レンガ建築の建物で、昭和4年に司法室と倉庫、昭和12年に郡守事務所が増築された。屋根には瓦が使われている。優美な外観から小総督府とよばれたという。
戦後は虎尾警察分局として使用されたが、2001年に雲林県の歴史建築として登録された。
雲林布袋戲館(旧虎尾郡役所)。
雲林布袋戲館。
布袋戲は台湾語で「ポテヒ」よばれる。布袋劇の起源は約300年前の中国泉州だといわれている。台湾では、1960年代にテレビ布袋劇で人気に火がつき、台湾独自の発展を遂げた。雲林県は台湾における布袋劇の故郷とされ、今でも廟で神様へ見せるための布袋劇や、観客へ見せるための大小様々な布袋劇が行われているという。
館内入って右側の部屋では、代表的な劇団の歴史や簡単な紹介が写真や図で説明されている。
雲林布袋戲館。
左側の部屋では布袋劇に使われる人形や衣装、楽器などが展示されている。ミニ舞台がいくつか模擬展示されていた。
雲林布袋戲館。建物裏側は中庭になっており、休憩コーナーが設けられている。
雲林布袋戲館。建物裏側の中庭。
雲林布袋戲館。2階。昭和期の官庁建築の雰囲気が残っている。
雲林布袋戲館。中央の高塔部分。
雲林布袋戲館。2階から1階の回廊を見下ろす。市松模様のタイルに趣がある。
11時を過ぎたので、虎尾駅へ帰り、レンタサイクルを返した。男性係員からアイスキャンデーを無料で貰って、再び雲林布袋戲館近くにあるバス駅に歩いて向かった。
バスに乗り、台湾鉄道の斗六駅へ行き、扇形機関車庫を見学するため、彰化駅まで乗車した。