2017年10月15日(日)。
本日は桃園の大渓老茶廠(旧・日東紅茶工場)と旧・桃園神社を見学し、時間が余れば台北市内を見学する予定であった。
宿の「趣旅館・林森館」の朝食バイキングは土日は豪華で、つい長時間になってしまった。7時過ぎに宿を出て、台鉄台北駅へ向かい、区間車で桃園駅まで乗車した。桃園駅から南へ200mほどの桃園客運桃園バスターミナルまでへ歩き、8時30分発の台湾好行バス小烏来線のバスに乗車した。このバスは休日のみの運行なので、本日の日曜日しか選択できなかった。
ただし、バス停の名称は「水流東」なので、途中の桃園客運大渓バスターミナルから、5090番5091番復興行き、水流東バス停下車でもよいのだろう。
時刻表では大渓老茶廠バス停へは9時27分に着くことになっていたが、それらしい所を通過してしまったことに気が付いた。私以外に降りる客はいなかったのだ。運転手に大渓老茶廠の文字を見せても埒があかない。仕方なく次のバス停である角板山公館で下車し、復路便を待つことにした。
10時45分のバスに乗車し、大渓老茶廠バス停へ10時55分頃に下車した。
バス停には道標があるので、200mほど南へ小道を歩くと大渓老茶廠へ着く。南北の感覚は逆転しているのだが。
大渓老茶廠を知ったのは2016年の台湾旅行で、台南の国立台湾歴史博物館で「台湾速写 昭和10年頃の台湾風景。北西部編。新竹、桃園、日東紅茶」の印象的な映像を見て、日東紅茶のルーツがここにあることを知ったことによる。
かつてはここで日本内地や海外へ向けて輸出用の紅茶が作られていたことは今ではあまり知られていない。
日本統治時代の1899(明治32)年、三井合名会社農林課(のちの三井農林株式会社)が現在の新北市海山区と桃園県大渓郷で大規模な茶園の経営を始めた。ここで製造したウーロン茶などを国内外に売り込もうと試行錯誤するが、なかなか軌道に乗らない。
三井合名会社理事長團琢磨は1926(大正15)年、自ら現地に赴いて茶園と工場を丹念に視察。その結果、團はウーロン茶の製造を全て紅茶に切り替えることを決断した。
1926年(大正15年)に現在の大渓工場の前身である角板山工場が誕生。團の決断から1年後の1927(昭和2)年、初の試作品が完成した。これを紅茶の本場ロンドンに出品すると、「ダージリン産に似た優良品」という高い評価。お墨付きを得て同年、国内販売に踏み切る。日本初の国産ブランド紅茶「三井紅茶」の誕生である。
「三井紅茶」はその後「日東紅茶」と改称、商工省から優良国産品に指定されるとともに、ロンドン、ニューヨーク、中近東など世界各地へも輸出され好評を博した。甘く繊細な味はとても優雅と有名になり、セイロン、ダージリン、祈門紅茶と並び称えられ、四大名茶のひとつとされた。
大躍進の背景にあったのが、製造体制の拡充である。茶樹の栽培から紅茶製造に至るまで研究と改良を重ね、近代的な機械設備と生産体制を確立。発売10年後には8茶園9工場を所有し、茶園面積は約24km²(東京ドーム約505個分)にまで拡大した。
紅茶の製造量は順調に増え、全盛期には1日3交替24時間操業で年間最大600トンを生産していたという。1931(昭和6)~40(昭和15)年の10年間で、総取扱量は409tから2,400tに増加した。
戦後は台湾農林公司に引き継がれ、茶の製造はその後も続いたが、経済成長にともなう地域労働力の流出と、政府による製茶管理規則の廃止による小規模製茶工場の乱立、台湾の紅茶需要の落ち込みで、同社は1995年、大渓製茶工場の廃止を決めた。
2010年に台湾農林股份有限公司が元の建築の骨組を残して再建に着手し「大溪老茶廠」と正式に名称を変更し、新たな観光スポットとしてオープンした。
敷地面積1670坪を有す大渓老製茶工場の外観はインドのダージリン紅茶工場を手本としている。青を建物の基調として、窓枠や柱、天井に壁、芸術作品など、どれも落ち着いた青の色調と建物のレンガ造りにヒノキ屋根と日本・台湾・イギリスが混ざり合った様式となっている。
受付に11時15分頃到着。ガイドツアー料金100元を支払った。料金は全額が金券となり、あとで紅茶のペットボトル購入時に利用した。土産の紅茶購入にも利用できる。日本語のリーフレットをもらった。
ツアー時間は映像鑑賞を含めて、約1時間である。
11時開始のガイドツアーに加わった。
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956年火災時の写真。
1945年日本の統治が終わると、三井合名会社は撤退し、代わりに政府が工場を管理するようになった。1946年には農林處が官営の「台湾茶業公司」を作り、運営を担当。角板山工場を「大渓茶葉」と改名した。
1955年に台湾農林股份有限公司による民営となったが、翌年機械の操作ミスによる火災に見舞われた。その後1959年に再建されたが、生産量は減少。1995年に製造を停止した。
蒋介石総統が角板山の別邸に向かう途中、見慣れた製茶工場が見当たらず、いきさつを尋ねたのち、工兵に全力で再建に協力するよう命令を下した。
1F文物展区では、工場で実際使用していた機械などが展示されている。
乾燥機。
このあと、2階へ向かった。