2017年10月16日(月)。
1920(大正9)年1月27日に宜蘭線の瑞芳駅と猴硐駅間が開通して猴硐駅が開業し、猴硐炭坑で産出した石炭を各地に運んだ。かつては、平渓線の蒸気機関車の基地であった。
駅の正面側に出て、駅前の店の間を抜けまっすぐ進むと、炭鉱で栄えたころの村の様子を紹介する「願景館(VISION HALL)」と、事務所(現・情報センター)がそのまま残されている。
台湾最大の炭鉱であった猴硐炭坑。
瑞三鉱業公司の前身は、日本統治時代に九份金鉱の所有者・顏雲年の瑞芳炭山と日本人木村久太郎が出資した「久年二坑」で、その後の合併で「基隆炭鉱株式会社瑞芳三坑」となった。
1934年、李建興が「瑞三鉱業」を創設して、瑞芳三坑の採鉱権を請け負い、1990年の閉山まで瑞芳李家が経営した。瑞三鉱業は猴硐坑、新坑、本坑および復興坑を開発した。また、猴硐地区の道路・橋などを整備した。
最盛期には住民900戸、6000人以上が居住していた。
猴硐炭坑の各坑道で採掘された石炭は、すべて軽便鉄道のトロッコで選炭場に運ばれ、洗浄選別された。
時間と情報がなかったので、願景館へは寄らず、情報センターで日本語リーフレットを入手したのみ。
猴硐駅へ戻り、11時13分発の列車で十分駅へ向かった。
平渓線は、日本統治時代の台湾において屈指の炭田といわれた菁桐坑の開発のため、台陽鉱業が敷設した石炭輸送が目的で敷設された専用鉄道が前身であり、1922年(大正11年)7月に開業した。しかし、トンネルの一部の地盤が悪く、ルートの一部を変更している。その結果、三貂嶺 - 菁桐坑間が完成したのは、1923年(大正12年)1月15日のことであった。その後、1929年(昭和4年)7月10日をもって台湾総督府に買収され、同年10月1日から同鉄道部(台湾総督府鉄道)の平渓線として営業を開始した。
台陽鉱業は台湾5大財閥の一つであった基隆顏家が経営した企業で、基隆顏家は日本統治時代、顏雲年・国年兄弟が端芳の金採掘請負を足がかりに、金鉱・炭鉱業で大きく成長し、豪商となった。
顏雲年の曾孫が一青妙・窈姉妹である。
鉄道沿線の渓谷はかつては「平渓耶馬渓」とも言われ、最近は、日本の鉄道ファンの間で「台湾の保津峡」と呼ばれている。
大華駅付近には、パワースポットとも言われる十分瀑布がある。
十分駅の線路沿い両側に商店街があり、そのまん中を列車が通る。
単線の平渓線では、日中約1時間毎に上下線1本の列車がこの駅で行き違いをする