Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

台北 国立故宮博物院 その1 北魏太和元年銘青銅鍍金釈迦牟尼仏坐像

$
0
0
イメージ 1
国立故宮博物院。
20171014日(土)。
国立故宮博物院は1991年に見学しているので、26年ぶりの見学となる。展示品は膨大かつ、国宝級の書画は限定的展示なので、王羲之の書など見たい作品が展示されていることは少ない。
2016年の訪台で故宮博物院を見学しなかったのは、そういう諦めがあったからだが、そうも言ってられないので、今回は見学することにした。それ以上に、順益台湾原住民博物館が原住民文化の展示では第1位に挙げられているので、そのついでという位置づけであった。
 
1014日、地下鉄とバスを乗り継いで、9時ごろ故宮博物院のバス停で下車した。大雨のため、玄関ホールへ入るまでにかなり濡れた。多分、いつ行っても入場者は多いのだろう。この日の見学客数が多かったかどうかは分からない。とにかく、早い時刻から見学すべきと思った。それでも入場者は多かった。
展示品のほとんどを撮影したので、かなり時間がかかった。930分ごろから1430分までほぼ休まずに5時間見学した。
 
1階の第101室「慈悲と智慧-宗教彫塑芸術」から見学した。
 
イメージ 2
北魏太和元年銘青銅鍍金釈迦牟尼仏坐像。北魏太和元年(
477)銘。
高さ40.3cm
北魏前半期の仏像を代表する佳品の1つ。北魏では、国家的な規模で仏教信仰が興隆し、各地で多数の仏像が造守されたが、その前半期においては、この像のように、西方の仏像様式の影響を色濃く受けながら、平明でのびやかな作風の仏像が産み出された。
4脚を備え、2頭の獅子が付いた台座の上に、両手を鷹揚に広げた如来(仏)が座り、大ぶりの光背を負うという形式は、北魏の大和年間(477499年)頃の造像に典型的なものである。
渦巻く頭髪や、光背周辺のうねるような火炎文、台座前面の立体的にからまる唐草文など、いずれも全体を鋳造した後に、切れの良い鏨(だがね)によって刻み出したものである。均整のとれた肢体の造形とあいまって、力強さと生動感にあふれた優れた造形を見せるとともに、青銅の地金に金メッキをほどこすという、金銅仏ならではの技法により、金色に輝く如来の神々しい姿が一層引き立って見える。「台北故宮博物院 別冊太陽2007」。
結跏趺坐、右手は施無畏印、左手は衣端を握る。周囲には七仏が刻まれる。重量3954g。台座後部に「太和元年九月十日安/熹縣堤陽□□願己身為□□母造釋加聞佛、又為居家眷屬大小現世安隱、亡者生天宣語諸佛、所願如是、故記之耳」の銘があることから、北魏・孝文帝時代の477年の制作であること、現在の河北省定県付近で制作されたと分かる。
 
仏教は前漢末(BC1世紀)に中国へ伝来し、南北朝期(5世紀半ば~6世紀後半)にはほぼ全土に定着した。中国で仏像が造られたのは後漢末期(2世紀末)のことと推測される。南北朝から唐にかけては造像活動は空前の活況を見た。素材の上では石像の作例が多く、次いで金銅仏や木彫像が多い。日本の飛鳥から天平の仏像にも大きな影響を与えた。
 
イメージ 3
北魏太和元年銘青銅鍍金釈迦牟尼仏坐像。北魏太和元年
銘。光背裏面。
光背裏面には仏陀の生涯を描いた図像が刻まれている。
 
イメージ 4
北魏太和元年銘青銅鍍金釈迦牟尼仏坐像。北魏太和元年
銘。光背裏面。
中層部。鹿野苑で初説法する釈迦像。両側には、比丘が座し、菩薩が侍す。
 
イメージ 5
北魏太和元年銘青銅鍍金釈迦牟尼仏坐像。北魏太和元年
銘。光背裏面。説明の一部。
光背裏面下層の図像拓本。右には、摩耶夫人が枝を手折ろうとしたときに夫人の右腕から誕生した仏陀像、中央には、生まれて7歩進み、右手で天を左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えた仏陀像、左には誕生仏の頭に龍王が香水を注ぎ、帝釈天と梵天が跪坐する姿が刻まれている。
 
光背裏面は3層に分かれる。上層は、「維摩詰経・文殊問疾品」をもとに、中央の塔内に釈迦仏と多宝仏が座し、塔の外側右には如意を持った文殊菩薩、左には塵尾を手にした維摩居士が刻まれている。
 
イメージ 6
左。北魏太和
22年銘青銅鍍金観音菩薩立像。498年。
右。青銅鍍金観音菩薩立像。北朝6世紀後半。

北朝の皇帝は仏を好み、仏教を国家統治の手段にするとともに、寺院の造営や仏像製作などの宗教活動に積極的に取り組んだ。帝室の影響の下、貴族や豪族、一般の人々もまた競うようにして寺院を建造して功徳を積み、仏教美術はしだいにその時代の精華ともいえる芸術様式となっていった。
 
 北朝仏教は、法華経、維摩詰経、涅槃経を中心としており、仏像の多くが釈迦、弥勒菩薩、観音菩薩像であった。その風格は北魏初期の雄壮さ、中期の清秀な趣への流れ、晩期の複雑緻密さから、東魏北斉の沈静な趣へと変化し、当時の工芸技術の水準を反映しているのみならず、宗教の雰囲気も今に伝える。
 
イメージ 7
左。青銅鍍金観音菩薩立像。唐
8世紀。
右。青銅鍍金観音菩薩立像。唐9世紀。

隋・唐代の帝王のほとんどが仏教を支持し、国力が大きく高まるにつれてインドとの往来も頻繁になった。唐の僧侶は仏法を求めて西方へ向かい、インドの僧侶は大量の仏教経典を携えて東方を訪れ、仏教に新たな生命を吹き込んだ。また、多数の高僧が輩出したことから、仏教界は真に中国にふさわしい宗教について絶えず思索を重ね、それらが各大宗派へと発展し中国固有の思想とあいまって、仏教が徹底的に中国化されていった。
 
 隋・唐代における仏教の隆盛は、仏教美術をその極みにまで高めた。
インドから伝わった造像の手本図は、造像の題材をより豊かなものにし、インドで重視された立体感と審美趣味が、中国の仏像特有の流れるような線の中に巧みに取り入れられた。
写実的な精神の主導の下、ふくよかで丸みのある人体や細緻な衣服や装飾品の描写、柔らかで自在な動態が表現され、芸術様式として確立されると同時に、作品の内面的な性格をも伝え、荘厳な神性が人間的な性質の内におだやかに溶け込んでいる。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles