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台北 国立故宮博物院 その2 清・乾隆帝詔書 平定台湾図 乾隆期台湾地図 楊守敬 

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清・乾隆帝詔書。乾隆二十年
(1755)。図書文献特別展示室。
20171014日(土)。
清代の制度では、国家的な大事や重要な式典の際、必ず皇帝により「詔書」が発布され天下に伝えられた。例えば、皇帝即位、大婚、親政、崩御、帝位継承、政治改革、立憲、大災害などである。
詔書には一定の書式があり、一行目は「奉天承運,皇帝詔曰」で始まり、末行は「布告天下,咸使聞知」で終わる。中間には天下に知らせる事柄が記してある。
 
満州文字は、清代にはモンゴル文字、漢文と共に三体と呼ばれ、三体は公用文字として公文書には必ず用いられた。漢字圏以外の清の支配地、すなわちモンゴルや新疆、チベットで通用する共通文字は清崩壊まで満州文字であった。満洲文字と漢文が併記された公文書の場合、内容が満洲文字の文章の方が漢文の文章よりも詳細に記述してあることが多い。
 
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「感恩社番阿目・阿四老 立添胎借銀字」。
借金証書。光緒71881)年10月。
清朝は中国大陸の南東沿海に位置する台湾に対しても、その地方政務、世情や民の苦しみに関心を寄せていたことから、台湾に関する政府の文献、奏摺、地図、地誌などの史料も数多く残っている。
 
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平定台湾図。
ヨーロッパから銅版画の技術がもたらされると、乾隆帝は乾隆25(1760)からの西域遠征を「平定回彊図」として乾隆381773)年に銅版画に彫らせた。
台湾での抗清運動であった林爽文事件の終息後の乾隆531788)年、乾隆帝の命により、「生擒林爽文図」、「枋寮之戦図」など12幅の銅版画「平定台湾図」が制作された。
 
林爽文(生年不詳~ 1788年)は、福建省漳州の人で、1773年に父と共に台湾の彰化県大里杙荘(現在の台中県大里市)に移住した。1784年に天地会に参加し、彰化天地会の指導者として頭角を現す。
17871月、台湾知府孫景燧が天地会に対する取締りを行うと林爽文は軍勢を率いて反清活動を行う。まもなく彰化を攻撃し彰化県署を占拠すると盟主大元帥を自称した。その後1ヶ月にして台湾府を除く清朝官衙は天地会の支配下に入った。
 
乾隆帝は満州鑲黄旗の陜甘総督である嘉勇公福康安を大将軍に命じて巴図魯の近衛兵数百名と10万の大軍、戦艦数百隻を大担門に集めて出港させ、11月に鹿港より上陸、八卦山で戦火が交えられた。福康安は彰化、嘉義などを奪還し、林爽文は集集、水沙連(現在の南投県魚池郷)を拠点とし尚も反清活動を続けた。
翌年1月に福康安は原住民の協力を得て老衢崎(現在の苗栗県竹南鎮一帯)で林爽文を捕らえ、反清活動はようやく終焉した。林爽文は北京に送られ凌遅刑に処せられた。
なお林爽文の叛乱に功績のあった諸羅は「義」挙を「嘉」するという意味で嘉義と、台中以南の地域を教「化」を顕「彰」するという意味で彰化と地名を下賜され現在に至っている。
 
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平定台湾図。枋寮之戦図。
枋寮は台湾南部の屏東県に属す台湾海峡沿岸の港町で、2016年の旅行では台湾最南端の墾丁方面に向かうバスに乗るため、台東方面からの列車で下車し、シラスを食べた思い出がある。
 
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乾隆期台湾地図。彰化鹿港。
乾隆帝は原住民の分布状況などを把握するため、乾隆15年と16年(17501751)に各地の封彊大吏(地方の軍政を司った官員)に所轄地域の少数民族と外国人の絵図を進呈するよう命じ、それらを集めて絵図に解説をつけた『皇清職貢図』が編纂された。
この全面的な民族調査計画では、台湾の原住民に関しても13幅の図像が描かれ、民族衣装や原住民の容貌、民族性、習俗などの説明も加えられた。
 
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乾隆期台湾地図。諸羅(現・嘉義)。
 
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乾隆期台湾地図。府城(台南)。
 
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欽定平定台湾紀略。
清高宗(乾隆帝)敕撰。清乾隆間内府朱絲欄写本。32.5㎝、横20.5㎝。
陳惠運2006。「私の研究では、古来より台湾は中国の領土ではない。このことは清代に、清国政府が編纂した〈欽定平定台湾紀略〉にはっきり記されている。」
 
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故宮博物院所蔵善本古書精粋。
 
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欽定四庫全書分架図(史部)。清内府写梵夾本。
乾隆三十七年(1772)、安徽の提督学政であった朱筠(1729-1781)が《永楽大典》の佚書の校勘を奏上。高宗乾隆帝は各省に勅令を発し、各省の書籍を収集。次いで翌年乾隆三十八年(1773)に設四庫全書館を開設し、内閣大学士である于敏中(1714-1779)に命じて、《四庫全書》を経、史、子、集の四部に分け、計三千四百余種の歷代図書の精華を編纂させた。
この巨作を大切に収蔵するため、乾隆帝は「天一生水」、「地六成之」の概念を手本とし、「文淵閣」を建設した。
第一部に当たる《四庫全書》は乾隆四十六年(1782)浄書完成後、この「文淵閣」に収納された。全書合わせて六一四四函、三六三八一冊に装丁され、その精緻な編集、謹厳な校勘、優雅な装丁は、現在当博物院の最も特色溢れた善本収蔵品となっている。
 
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楊守敬(
18391915年)。
清末の学者。字は惺吾、号は鄰蘇。湖北省宜都出身。1862年に挙人となり、1865年には景山宮学教習となった。金石学に通じていた。
 
光緒六年(1880)、楊守敬は駐日公使の何如璋、黎庶昌の招請により、前後して公使館の隨員を勤めた。この間、彼は多方面にわたり、中国国内ですでに逸文となっていた古典籍(佚存書)の収集に留意し、中国から散逸した書籍のみならず、日本や朝鮮で刊行された漢籍や貴重な鈔本、医学書も収集し、数十万巻の善本を得た。《日本訪書志》はその書誌学的研究である。
 
光緒十年(1884)、楊氏は任務を終えて帰国する際、日本滞在期間中に得た図書を全て持ち帰り、湖北省黃州に「鄰蘇園」(名の意は蘇東坡が遊覧した隣を意味する)を建てて群書を収蔵。次いで武昌菊湾に新築した「観海堂」の書庫に移した。
民国四年(1915)、楊氏逝去の後、観海堂の蔵書は北洋政府が購買し、その中の一部は、「松坡図書館」に引き渡され、現在は「中国国家図書館」が所蔵している。残りの約半数は、「集霊囿」に置かれ、十五年(1926)、政府より故宮博物院に引き渡され、保管された。抗日戦争期間中、観海堂の蔵書の凡そ1,634部、15,491冊は文物と共に難を避け南遷、再度西南に移動し、次いで国共内戦時、台湾に運ばれた。
 
楊守敬は、欧陽詢の書風を受け継いだ能書家としても知られ、日本における六朝派の書風を始めたため「近代日本書道の祖」とされる。
楊守敬は漢魏六朝の碑帖13000点を携えて来日し、4年間在留した。この出来事は、それまで貧弱な版本を頼りに研究するより他に方法のなかった日本の書道界に大きな影響を与え、特に漢碑や北碑に注目が集まった。
奈良時代以降、日本の書は晋唐・宋・元・明清の書を典拠にしてきており、漢碑や北碑は日下部鳴鶴らの目に新奇なものとして映った。そして巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は、ほとんど日課同様に楊守敬を訪ね書法を問い、これが六朝書道流行の発端となった。

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