掐絲雙龍琺瑯盤。明。万暦(1573~1620)。国立故宮博物院。
2017年10月14日(土)。
内府瑯玕。
金属器は工芸品の中の貴族といわれている。中でも金属地に琺瑯釉薬を塗って焼成された琺瑯器(七宝焼き)は、明清時代には重要な金属器類の一つとされた。
掐絲琺瑯(有線七宝)の製作技術は元代の頃に西洋から伝わり、明代の景泰年間に最盛期を迎えたため「景泰藍」ともよばれている。
清代は画琺瑯器の発展が最も際立ち、康煕・雍正・乾隆の三朝がその製作に力を傾注した。康熙時代には宮廷の造弁処がヨーロッパの職人の指導を得て、西洋の作品と美しさを競い合う琺瑯器を製作。乾隆朝では各種琺瑯技術を融合させるだけでなく、中国と西洋の装飾文様を結合し、中華文化と西洋文化の新たな交流が繰り広げられた。
掐絲琺瑯鳥式炉。明。
琺瑯器は釉薬を金属の素地に焼き付けた工芸品である。中でも掐絲琺瑯(有線七宝)の歴史が最も古く、銅線で囲んだ部分に各種釉薬を乗せて繰り返し焼き付けたのち、表面を磨き、鍍金を施して完成させる。元代に西洋から製造技術が中国に伝わり、明代の景泰年間に最盛期を迎えたため「景泰藍」ともよばれる。
この香炉は首をもたげた鳥を象っており、香煙は鳥の首を通って口から立ち上るようになっている。くちばしと足、水かき以外は全身に有線技法が用いられ、金属線の枠内に埋めた各種色彩の釉薬や上絵付けなどで羽毛を表現している。上部台座にも同じく有線技法で纏枝菊花文があしらわれ、金メッキが施された下部台座は後に加えられたものと思われる。
底部中央に陰刻された「甲」の字は、乾隆年間に文物に付けられた評価鑑定の印である。
動物をモチーフにした琺瑯器は明代の中晩期に登場し、琺瑯器の形をよりバラエティに富んだものにした
銅胎画琺瑯菊花方壺。清。康熙。高さ 9.6㎝、口径 6 ㎝。
底面に白地藍書で「康熙御製」と楷書の款がある。画琺瑯は康熙帝時代の典型的な風格を象徴し、康熙時代の宮廷で飲茶文化が盛んであったことを表す。
子孫萬代金胡蘆。檀香木首飾りなど。清。
瓢箪型の金器など。
清代皇室の収蔵品であり、参内制度に関連した各種装身具のほか、臣下からの献上されたものや、外地使節の朝貢や貿易を通じて得た各種珍しい物品なども含まれている。
金属工芸、玉石や香木の彫刻、真珠や翠玉の象嵌など多岐にわたり、清代宮廷で受け継がれてきた歴史の伝統、及び中国東北地方において形成された特有の文化を随所に体現している。
装身具と縁起の良い置物は異なる実用性を備えているが、使用する素材や吉祥的な題材は巧みな発想を精巧な装飾に込めている。
珊瑚魁星点斗盆景。清。
方形の玉の植木鉢から玉片で表現された波が湧き起こり、水中から龍の首と魚の尾を持つ翠玉の鰲魚が頭をのぞかせている。鰲魚の頭上に立つのは、朱色の珊瑚で彫刻された、体に帯をまとい七星を高く掲げた神-魁星である。
魁星は魁斗星君とも呼ばれ、北斗七星の第一星であり、人間界の試験や学問の運気を司る、地位や登用の星と伝えられる。
南宋から明清時代にかけ、科挙試験に合格し、洋々たる官途を祈願するため、楼閣を築いて魁星を祀る習わしが多く見られた。中国語の「魁星高照」(試験運がある)、「獨占鰲頭」(首位を占める)などの言葉もここから生まれた。
伝説では魁星は鬼の形相をした学識に富んだ士人だったが、科挙の試験に何度も挑むもことごとく落第し、絶望の末に水に身を投げたところ鰲魚に助けられ、最後に星になったと伝えられている。この伝説が基となり、鬼のような形相をした神というイメージと鰲魚が結び付いた。さらに多くは自らの星である北斗七星の第一星に向け左足を蹴り上げた姿勢を取っており、首位を取ることを表している。
この作品は全身が赤く、目をかっと見開き、威厳に満ちた魁星を主体とし、その周りには吉祥を象徴するさまざまな装飾が施されている。例えば、植木鉢の四面には蝙蝠(中国語の「蝠」は「福」と同音)を象った五色の美石が翠玉の「寿」字を囲んでいるほか、植木鉢の中の太湖石にも赤や青の宝石と鮮やかな霊芝があしらわれ、瑞祥を表している。
また、魁星は紅白の宝珠が象嵌された梅の枝を手に持っており、どの花よりも先に開花する梅が群衆の先頭に立つことを意味している。各色の貴重な材料に施した躍動的な彫刻や精巧な金銀細工を通じ、五福が訪れ、吉祥の星が照らし、国に有能な人材が集まるという願いが込められており、清代宮廷の珍玩の中でも豊かな情趣と華やかな装飾を備えた置物である。
翠玉白菜。琺瑯製植木鉢と木製支持具。清。
翠玉(翡翠)を、虫がとまったハクサイの形に彫刻した美術品で、国立故宮博物院を代表する名品の一つである。
翠玉白菜は高さ18.7㎝、幅9.1㎝、厚さ5.07㎝で手のひらよりやや大きいぐらいである。
この彫刻の作者は伝わっていない。
この彫刻は、元々は光緒帝の妃である瑾妃の住居、永和宮(紫禁城中)にあった。瑾妃が嫁いだ1889年に初めて世に現れたことから、瑾妃の持参品と考えられている。
現在は木製の台に斜めに立て掛けられて展示されている。しかし、本来は盆景の一部として、四枚の花弁を象った琺瑯の小さな植木鉢の上に、四角い木製の支持具によってまっすぐ立った姿であった。
ところが、1925年に故宮博物院が開館する際、当時の展示担当者はこのような組み合わせでは白菜の特質を壊してしまうと考え、また直立する白菜の姿にも違和感を感じたため、簡易な木製の台をわざわざ新規に作らせて現在のような鑑賞形態となった。この琺瑯鉢と支持具は長らく行方不明だったが、21世紀になって再発見され、現在は翠玉白菜の隣に展示されている。
しかし本作品の本領は、垂直に立てて正面から見た時に最も表れる。外側を覆う花弁のような葉は、手前の葉は低く奥の葉は高くなるよう計算され、立てた時に最も多くの葉が連続して見える作りとなっている。更に、斜めにしてしまうとキリギリスの重さによって葉が垂れ下がる様子に齟齬が生じてしまい、葉先のしなやかさと虫の重みによって生じる造形的緊張感がやや損なわれてしまう。
翠玉白菜。
原石は、半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、原産地は雲南からミャンマーだと推測される。原石には空洞などの欠陥箇所もあるが、この彫刻ではそれが白菜の茎や葉の形にうまく活かされている。上部の緑色で白菜の色を再現しているが、これは人工着色ではなく、石に元から付いていた色を生かしたものである。このように原料本来の形のみならず、色目の分布をも生かした玉器工芸は「俏色(しょうしょく)」といい、硬玉が中国に普及する清朝中期以降に流行した。
白色と緑色が半分ずつ混じった翠玉(翡翠)で、一般の容器や腕輪、帯飾りなどを作ったのでは、亀裂やまだら模様があるため、瑕疵の多い劣材としか見なされなかったであろう。
しかし、玉匠は白菜という造型を思いつき、緑色を葉先、白色を茎とし、亀裂は葉脈の中に隠し、まだら模様は霜にあたってできた跡とした。衆人の目に欠陥と映ったものが、創作者の入念な創意工夫により、真実と美に変化した。
清代に本作と類似した作品が数例あるが、そのなかでも翠玉白菜は、新鮮な葉の息吹まで感じさせる瑞々しい造形や、白と緑の対比や緑の濃淡差によって小品とは思えないほどの深い奥行き感をもち、俏色のなかでも最も完成された作品の一つと言える。
翠玉白菜。
この作品は永和宮で暮らしていた光緒帝の后妃、瑾妃が所有していたものと考えられている。このため、潔白を寓意する白菜は花嫁の純潔を象徴し、多産を寓意する葉先にとまった二匹の虫は皇室に子孫が絶えないことを祈願するものと解釈される。
葉の上にはバッタとキリギリスが彫刻されており、多産の象徴と考えられている。しかし、このキリギリスは鳴くことが得意とされており、清の康熙帝の時代から、宮廷で宴会の雰囲気を盛り上げるために用いられていた。したがって、イナゴと同じように子孫繁栄を象徴しているとは解釈できないという説もある。
1階の特別展示室で展示。10時15分頃、見学。係員が列を整理していたが、列はスムーズに流れていた。26年前に見学したときは、書画ほどには注目していなかった。人気が出たのはここ20年ぐらいだろうか。素人好みのキッチュな工芸品である。