「明 永楽 甜白梅瓶(内府銘)」。国立故宮博物院。
2017年10月14日(土)。
永楽帝は明の第三代の皇帝で、在世中の年号は永楽(1403-~1424年)。皇帝として22年にわたり権勢を振るった永楽帝は文治、武勇のいずれにも優れていた。例えば紫禁城の建造、南洋への艦隊派遣、『永楽大典』の編纂、宮廷内で使用する大量の器の製造など、その功績は枚挙に暇がない。
「潔素にして瑩然,甚だ心に適う」これは、永楽帝自らが好む陶磁器(殊に白磁)を賛美した言葉である。
永楽帝の時代に作られた磁器の中で最も代表的なものが白磁、青花磁、紅釉磁である。
「甜白」と呼ばれる白い釉を掛けて焼き上げた白磁は落ち着きと静けさを漂わせ、白磁の新たな一面を創造した。
青花磁は造形が多種多様で、さまざまな異文化との交流によって生み出された新しい様式が特徴である。
紅釉磁は艶やかな光沢が特徴で、後世の陶芸職人の間で模倣の対象となった。
当時、宮廷内での要求と監督の下、磁器の製作はまず宮廷内部で器の様式が定められ、その後、決められた通りに製作するよう職人に命じられた。
宮廷内で使用される器物はいずれも形状が整い、釉色は純正で、文様などの装飾についても規範に合ったものであったが、こうした様式はこの時代から始まる。
明代末期の文人は、明代初期に宮廷で用いられていた磁器について「永楽、宣徳年間に宮廷で焼造された磁器は、今日になっても貴い。当時は騌眼(表面のピンホール)甜白を常とし、蘇麻離青を装飾に用い、鮮紅を宝とした」と評した。
景徳鎮で製作され、「内府」の銘が入った梅瓶、爵、爵盤、龍鳳文が施されたこれらの磁器は、永楽磁器が宮廷の指定に基づいて製作され、使用されたことを示している。
「明 永楽 青花波濤龍紋爵杯」。
「紅釉金彩雙龍趕珠紋碗 明 宣徳」。
宝珠を追いかける2匹の龍の模様。
看見暗花。
暗花とは、素地に模様を線彫りして、模様をつけた上に釉をかけたものが釉下の沈線模様となり、光線を当てると、模様が透けて見えてくる、という中国陶磁器の装飾技法。
「甜白雙龍紋碗 明 永楽」。暗花。模様は見えていない。
「甜白雙龍紋碗 明 永楽」。暗花。透けて見えてくる模様。
チムール帝の寝室。原画ハーバード美術館蔵。
青花磁器は15世紀初めのチムール帝の宮廷で生活容器として使われた。
行旅図。原画トプカプ宮殿博物館ライブラリー蔵。
青花磁器は荷車に積まれて砂漠を進んだ。
永楽年間は宗教、外交、貿易などでチベット、中央アジア、西アジアとの交流が盛んであった。宮廷は陳誠らを陸路から、また鄭和を海路から中央アジア、西アジアの各国へ派遣し、これを通じてイスラム世界の金属製あるいはガラス製の器の形状や文様を模倣した磁器を製作させた。材質の異なる器物を模倣し、創造したことから、永楽帝が積極的に対外交流を展開した必要性や、それを達成しようとした心意気を伺うことができる。外来のコバルト顔料「蘇麻離青」で模様を描いた青花磁器は、永楽時代に最も注目された。
器物の形状や文様にも、異文化との交流による影響が反映された。皇室はチベット仏教を崇敬するとともに、チベットの各教派の高僧による往来を重視した。高僧らに贈呈する物品には価値が高く、貴重な磁器が含まれていた。
「明 永楽 青花花蝶紋玉壺春瓶」。
「明 永楽 翆青釉三繋蓋罐」。
龍泉窯。
明の洪武26年(1393年)、宮廷の命令で、「官用の陶磁器焼成については、種類・人材・資源につき官の許可を得ること。大量の生産が必要な場合は首都で窯を築いて焼き、少量の場合は景徳鎮または龍泉大窯楓洞岩窯で焼成すること」と定められた。
龍泉窯は唐から清時代の窯で、窯跡は、浙江省麗水市龍泉市を中心に広く分布する。青磁の本格的な生産は北宋時代に始まり、灰色がかった淡い色の釉調、淡青釉が特徴で、実用器のほか多嘴壺などの明器が作られた。
北宋時代後期には緑青色の釉色が多くなり、南宋時代には明るい青色、粉青色の青磁(砧青磁)が出現する。海外に広く輸出され、わが国にも多数請来された。
元時代には、酒会壺や盤などの大型品も作られるようになり、貼花文や刻花文などの器面装飾が多用され、青緑色の青磁(天龍寺青磁)が主流となる。
明時代前期には碧緑色の上質な青磁(七官青磁)も生産されたが、中国陶磁の主流は青磁から景徳鎮窯の青花磁器や五彩磁器に移っていく。
「青瓷画花花卉紋玉壺春瓶 明前期 龍泉窯」。
官様。
明の初期、景徳鎮窯と龍泉窯の工人たちは、宮廷の様式に従って製作し、印花・鈷料絵画・刻画の技量により、宮廷の目標を達成した。
「青瓷画花花蓮弁碗 明 永楽―宣徳 龍泉窯」。
「明 永楽 青花朶蓮梵文勺」。長33.5cm、幅 8.8cm。
「明 永楽 青花四季花卉紋扁壺」。
「明 永楽 青花纏枝花卉紋扁壺」。
「明 永楽 青花花卉紋扁壺」。