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台北 国立故宮博物院 その6 中国歴代陶磁(新石器時代~漢)

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中国歴代陶磁(新石器時代~五代)。国立故宮博物院。
20171014日(土)。
「土の百変化―院蔵陶磁コレクション」。
新石器時代~五代(BC6000AD960)。
新石器時代の晩期になると、各地で数多くの陶器が製作されるようになり、原始社会の活発且つ旺盛な生命力を象徴しています。例えば、黄河上流の仰韶文化に見られる彩陶は、赤、黒、白の鮮やかなコントラストの幾何学模様が特徴的です。また、黄河下流の龍山文化の黒陶は、輝きのある黒と卵の殻のように薄い素地で知られています。同じく黄河下流の大汶口文化では、白い陶器皿が発展しました。これらの陶器はそれぞれの特徴を備え、胎土の選別や焼成技術などの進歩と多様な美感を反映しています。
 
陶器は「死に事(つか)うること生に事うるが如し」という中国の葬儀文化の中でも重要な役割を果たしており、副葬される土偶や明器の多くも陶土で作られました。例えば楽器、従僕、文官、護衛、または鶏や犬などの動物、建物や邸宅などに、古代社会の情景や当時の審美感をうかがうことができます。陶器の表面には低温釉彩が施されたものが多く、例えば漢代は質朴で落ち着きのある緑釉や褐色釉が好まれ、唐代に至ると黄、緑、褐色の三色の釉薬を同時に施し、後に「唐三彩」と呼ばれる陶器が発展しました。
 
 釉薬が施され、高温で焼成された硬陶は、早くも殷代のころから製作され、春秋晩期には浙江地域で釉色が均一でつややかな青磁礼楽器が発展しました。しかし、磁器が大量に焼造されるようになったのは三国、両晋時代のころからです。国の匠たちが製作に携わり、焼造された作品は高官や雅士に愛されました。「磁」と言う字が詩句の中に登場するようになったのもこのころからでした。
 
隋、唐以降は陶磁器の製作技術が普及し、磁器は貴賤の別のない一般的な器物となりました。窯場は各地に分布し、中でも南方越窯の青磁と北方邢窯の白磁が最も人気を博し、定窯や長沙窯で焼成された磁器も、隣国に大量に輸出されたほか、遠くエジプトやチグリス・ユーフラテス川の流域にも伝えられました。
 
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白陶
大汶口文化晩期(BC3000BC2500年)。許作立氏寄贈。
大汶口文化と山東龍山文化はいずれも黃河の下流地域にあり、新石器時代中・晚期文化を代表するものであった。年代はBC4100BC2000年の間で、地域は現在の山東省・江蘇省北部・河南省東部・安徽省北部、及び遼東半島辺りである。
 
大汶口文化では早期と晩期では社会的発展に顕著な差違がみられる。早期の墓葬は、小さな竪穴土壙墓が中心で副葬品も少ない。土器は手作りを主とする紅陶が大多数を占める。
中期の墓は、中型・大型の土壙墓と木槨墓が登場し、規模と構造上の差と副葬品の量的差違が顕著となる。
晩期になると大型墓はたいてい木槨を使用し、大量の土器のほかに玉・トルコ石製品、精巧な彫刻のある象牙製品の副葬やブタの頭骨の供献などが特定の墓葬に限られ、社会階層に不平等が発生して、貧富の差が生じたことを示している。
また、土器も紅陶が少なくなり黒陶や灰陶が増加し、ろくろの使用が始まって、土器製作における専業化がかなり進行していることをうかがわせる。彩陶は早期から存在するが、全体からみると各段階の出土は少なく、晩期には特定の墓葬にのみ限られ、最後には消失してしまう。
 
この白陶鬹(ハクトウキ)は泥質のカオリン土を使用して製作された酒器または水注の形をしており、祭器と考えられる。
器形は首を伸ばして鳴く鳥の形をしており、飛鳥を神の使いとして崇拝していたことによる。
三足でバランスをとり、二足は前方、一足は後方につく。注ぎ口は鳥が嘴を天を向けているのに似ている。
開いた口とすぼんだ首、首の接合部分には5本の絃紋があり、腹部の上半部はふっくらと肥えている。腹部の前には丸い餅の形をしたボタンがついており、中間には突起した縄の紋様がある。扁形の取っ手が首に接続しており、腹部の下半部には3つの中空の袋の形をした錐足がある。
 
陶鬹は新石器時代晩期の陶製容器で、通常夾砂或いは泥質を原料としており、赤・グレー・黒・白の器がある。大汶口文化遺跡、山東龍山文化遺跡からユニークな造形の陶鬹が出土しているが、夏末商初に至り、陶鬹の製作は徐々に減少し遂に消失した。
 
許作立(1942-)。台湾台中県の人。永大機電公司執行役員。学者の家庭出身。古い文物を好み、古陶、彩瓷、書画を買いあさり、古玉器の収蔵に至っては精緻且つ豊富である。堂号を「藍田山房」と言う。
 
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彩陶双耳罐。仰韶文化馬廠類型(
BC2350BC2050年)。
新石器時代中期以降、黄河中・上流域では老官台文化(陝西省)、仰韶文化(陝西省・河南省)、甘粛地方では馬家窯文化(甘粛仰韶文化、甘粛省・青海省)、黄河下流域では大汶口文化(山東省・江蘇省)、龍山文化(山東省)、江南地域では河姆渡文化(浙江省)、馬家浜文化(上海市)、良渚文化(浙江省)、四川方面では大渓文化(四川省・湖北省)、長江中流域では屈家嶺文化(湖北省・河南省)などが栄え、彩文土器、黒陶などの土器を生み出した。
 
甘粛地方の馬家窯文化(甘粛仰韶文化)は、馬家窯類型(BC3000年頃)、半山類型(BC2600年頃)、馬廠類型(BC2200年頃)に分けられ、彩文土器の出土を特色とする。
半山類型の彩陶には、屈肢の姿態をした「神人紋」が出現した。馬廠類型になると、「神人紋」は簡略化され、手足と指爪のかたちを残すだけになった。のちには、その変形として卍紋がみられるようになる。
 
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黒陶高足杯 龍山文化(
BC2500BC2000年)。許作立氏寄贈。
卵殻土器とよばれる卵の殻のように薄い黒陶。日本では縄文土器が作られていた時代、中国では均整のとれたシンプルで優美な器形と美しい色が追究されていた。
 
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戦国 灰陶加彩陶鳩。
BC5世紀~BC3世紀。高さ12㎝。
紅、黒、白の三色による彩絵。鳩の下の柱台には紅色と黒色が交錯する條紋と翅膀花紋が加彩されている。
 
殷周から春秋戦国をへて、BC1500年頃から製作されてきた灰釉陶器は、戦国時代中期にピークを迎え、以後は停滞している。灰釉陶器の製作は一時期断絶したようで、紀元前3世紀頃の灰釉陶器の出土例はほとんどない。漢時代には再び灰釉陶器が作られるものの、技法や釉調は戦国時代のものよりむしろ後退していることが指摘されている。
 
戦国時代の華北では灰陶に彩色を施した加彩灰陶が作られていた。灰陶は高火度の還元炎焼成で焼き締めた土器で、新石器時代から製作されているが、灰陶の器表に赤、白、黒などの顔料で絵画や文様を表した加彩灰陶は春秋時代以降にみられる。
新石器時代の彩文土器(彩陶)が焼成前に文様を描くのに対し、加彩灰陶は焼成後に加彩するものである。戦国時代後半の墓からは副葬品として納められた多数の加彩灰陶が出土した。これらは青銅器または漆器の器形を模したものである
 
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戦国 彩絵陶三足鍑。
BC5世紀~BC3世紀。
鍑(ふく)は中国古代の容器の一つで、首がくびれ腹が張り出し、底が丸い釜形をなす。戦国時代は陶製、漢代には多く青銅製。
 
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西漢。灰陶加彩神獣壺。前漢時代
BC206AD9
灰釉陶器は、漢代にも作られているが、紀元前3世紀頃には一時期灰釉陶器の生産が途絶えていたようで、時代的に断絶がある。また、漢代の灰釉陶器は戦国時代のものに比べて技術的にはむしろ後退していることが指摘されている。
 
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西漢。灰陶加彩御者俑。前漢時代
BC206AD9。許作立氏寄贈。
 
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西漢。彩絵陶猪。前漢時代
BC206AD9
 
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漢。灰陶瓷梟形罐。漢時代
BC206AD220。許作立氏寄贈。
墓葬品。
 
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漢。緑釉陶博山樽。漢時代
BC206AD220
鉛釉陶器は700800度前後の低火度焼成によるやきもので、呈色剤に酸化銅を用いると緑、酸化鉄を用いると褐色ないし黄色に発色し、それぞれ緑釉、褐釉となる。
戦国時代にも緑釉陶の遺品があるが、鉛釉陶器が本格的に製作されるようになるのは漢代からである。緑釉陶、褐釉陶は実用の器ではなく明器(墳墓への副葬品)として作られたもので、壺、鼎、酒尊などの容器のほか、犬や虎などの動物を表したもの、さらには楼閣、家屋、井戸、竈などを表したものもあり、当時の人々が来世でも現世と同様の生活を願っていたことがうかがえる。
 
前漢期には神仙思想が流行し、それに関連する器物が作られた。博山とは仙人が住むと伝えられる山で、海中に浮かぶ神山とされた。博山炉は戦国末期にあらわれ,漢代に盛行した。

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