首を上げる右側の雁。「宋人秋塘双雁」の部分。国宝。国立故宮博物院。
左側の雁。。「宋人秋塘双雁」の部分。
2017年10月14日(土)。
二羽の雁が秋日の池塘の州浜に微風に吹かれながら佇んでいる。周りの黃色い蘆、紅タデ、枯れた蓮が趣を添える。その静謐さの中で、突然カワセミが飛び立ち、一羽の雁が見上げるように首を上げた。画家は洲岸、水草、蓮が生み出す円形の構図の中で、禽鳥の視線と動きを描きこんでいる。構図と筆法は北宋花鳥画の代表的画家である崔白(さいはく)の風格に匹敵しており、北宋の花鳥画のうちでも優れた傑作である。北宋末の徽宗の画院絵画の作と考えられる。
中国歴代法書選。
秦漢時代(前221-220)は書道の発展における重要な転換期です。まず夏、殷、周三代以来、枝分かれしていた古文と大篆、銘刻が統一され、標準的な書体─小篆が誕生しました。一方、春秋戦国時代に登場した隷書は篆書が簡略化されつつ成熟し、漢代には一般的な書体となりました。簡略化を推し進める風潮が盛んになるにつれ、隷書も変化と分化を繰り返し、その結果、草書と行書、楷書が生まれました。書体は絶えず変遷を繰り返し、魏晋南北朝(220-589)に至ると、過渡的な書風や書体の入り混じった表現が現れるなど、長い年月をかけて変化する中で、結体や筆法が自ずと規律化されていく様子が見てとれます
続く隋唐時代(581-907)も重要な時期の一つにあたります。政治上の統一によって南北各地の書風が合流し、筆法が完成され、楷書が歴代を通じて使用される書体となりました。宋代(960-1279)以降、著名な書家の書蹟を後世に伝えるため、法帖が盛んに作られるようになりました。しかし宋代の書家は古典の継承だけでは飽き足らず、自分の個性や自然の趣を表現しようとしました。
元代(1279-1368)に至ると、復古が提唱され、晋唐時代の書法の伝統が継承された一方、伝統に束縛されない意識もしだいに高まり、明代(1368-1644)になると、縦横に筆を揮う奔放な書風が登場しました。明人の書は非常に多彩な様相を呈し、行草書の表現は特に自由奔放で、当時のあくまで伝統に則った書法と対比をなしています。その間に個性を発揮して自らの書風を確立した書家も時代の波に呑まれることなく自己表現の道を歩みました。
清代(1644-1911)以降は、三代及び秦漢時代の古文や篆書、隷書などが相継いで出土しました。これは書法にとっては天の恵みだったと言えましょう。実証的な考証学が勃興する中、書道界にも金石学が興り、刻石と法帖を照らし合わす事によって、書法の発展に古今の繋がりが見出せるようになったばかりでなく、篆書と隷書から古きを学びつつ新しい創造を目指すことが可能となり、新たな方向性が導き出されたのです。
秦 瑯琊台石刻墨拓本。
中国統一後、各地を巡った始皇帝は、7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った秦山そして琅邪に建立した。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が残されている。
始皇帝の偉業をたたえる碑文は、始皇帝の側近であった李斯の筆と言われるが定かではない。篆書体の数少ない書蹟として知られる。
瑯琊台(ろうやたい)石碑はBC219年の巡幸の際、瑯琊(ろうや、現在の山東省青島市)に建てたものである。現在は中国歴史博物館に保存されている。
行の上下に線を切って文字が刻まれており、13行86字が残っているが、摩滅で石にひびが入って文字が涙を流したようになっている。書体は整然としており、字体は細長く、左右がよくそろっている。当時は毛筆がまだ発達していなかったので、太筆がなく、何回もなぞって太さを出したものらしく、丹念に書かれている。
釈文。
五大夫楊樛。皇帝曰。金石刻盡始皇帝所為也。今襲號而金石刻辭不稱始皇帝。其於久遠也。如後嗣為之者。不稱成功盛。丞相臣斯。臣去疾。御史大夫臣昧死言。臣請具刻詔書金石刻。因明白矣。臣昧死請。
魏三体石経墨拓本軸。111x59.8㎝。
三体石経(さんたいせっけい)とは、中国の三国時代、魏で正始年間(240-249年)に刻まれた、五経を記した石碑。建碑年の元号により「正始石経」とも呼ばれる。
古文・篆書・隷書の3つの書体により共通のテキストが書かれていることから、俗に「中国版ロゼッタ・ストーン」といわれる。
中国でいう「石経」とは、朝廷の学府(太学)において五経の定本(正規のテキスト)を石に刻み、学習用の教科書兼学府のシンボルとして建てたものである。
漢では口伝などによって伝えられた経典を隷書で起こしたテキスト(今文)が使用されていたが、後に秦以前の古文で書かれたテキスト(古文)が続々と発見された。魏になると、今文の学は衰え、鄭玄や王粛らの古文の学問が重んぜられるようにり、漢代に作られた熹平石経の横に、古文の経典である『古文尚書』・『春秋左氏伝』を追加して熹平石経の横に建て、「三体石経」となった。
碑文は古文・篆書・隷書の3つの書体により刻まれている。刻み方はまず1字について上から古文→篆書→隷書の順に刻み、次の文字をまたその下に同じ順番で刻むという形式になっており、通して読もうとするとかなり煩雑である。断片のみが残されている状態のため、1行の字数および全体の行数は諸説あって不明である。
書風については学府の教科書という性質上、模範性が優先されている感があり、同時代の隷書碑や後代の篆書碑に比べるとあまり個性らしい個性はない。
文字としての古文は長いこと『説文解字』に参考として収録された文字くらいしか史料がなく、詳細に不明な点が多かったため、貴重な追加史料として歓迎された。このため現在でも書蹟として扱われるより、古文研究の史料として扱われるのが普通である。
宋 蘇軾 致子厚宮使正議尺牘。冊。25.6x31.1㎝。
蘇軾が元祐元年(1086)に書いた書簡。紙本。行書、10行,計90字。
蘇軾(1037~1101)、字は子瞻、号は東坡。四川眉山の人。宋代を代表する一流の書家であり政治家、文学者でもあった。書は王羲之、顔真卿、李邕、楊凝式などを学んだが、顔真卿の影響を最も強く受けた。黃庭堅、米芾、蔡襄と並び宋代四大書家とよばれる。書風は奔逸,豪邁、不羈の気概がある。この書簡の文字は縱筆は重く,筆は軽い。筆画は左が伸びて右は縮むという蘇軾の書風の特色がみえる。
子厚は章惇(1035~1105)の字。建州浦城(福建省)の人。嘉祐2年(1057)の進士。王安石に認められて三司条例官に列し、1077年に翰林学士、1080年に参知政事に進んだ。
哲宗の親政の開始とともに徴還されて曾布・蔡卞らと与に新法を再開させたが、一方で蘇軾の赦免取消、司馬光・呂公著らの贈諡剥奪、宣仁太后に立てられた孟皇后の廃黜など旧法派を徹底的に排斥し、両派の怨恨を徒に助長した。
哲宗の死後、端王の擁立に反対したために徽宗が即位すると雷州に左遷され、蔡京の執権下で睦州団練使に貶されて歿した。
中央から逐った旧法派には官舎を認めずに民家に住まわせ、雷州では蘇轍に好意的だった知州をも罷免したため、雷州での評判は極めて悪かったという。
釈文。
軾啓。前日少致區區。重煩誨答。且審台侯康勝。感慰兼極。歸安丘園。早歲共有此意。公獨先獲其漸。豈勝企羨。但恐世緣已深。未知果脫否耳。無緣一見。少道宿昔為恨。人還。布謝不宣。軾頓首再拜。子厚宮使正議兄執事。十二月廿七日。
宋 黄庭堅 山預帖。冊。31.2x26.8㎝。
黄庭堅(1045~1105)は北宋の著名な文学者、書家。山谷道人と号し、黄山谷とよばれる。
江西分寧(現在の江西省修水)の人。治平四年(1067)、23歳で進士に及第し、県尉、校書郎、起居舎人、国史編修、知州などの官を歴任した。
張耒、晁補之、秦観とともに蘇軾の門下となり、「蘇門四学士」と称された。書は各大家をよく学んだが、主に顔真卿、蘇軾及び南朝刻石「瘞鶴銘」の影響を強く受け、傾いた結字と左右に展開する書風を発展させた。北宋の書道界の傑出した存在となり、蘇軾と並び評価が高く、宋の四大書家と称される。
東晋の陶淵明の愛菊、北宋の周茂叔の愛蓮、林和靖の愛梅、黄山谷の愛蘭の故事を描いた四愛図は有名。
釈文。
本作は小字ではあるが、成熟期以降の特徴がうかがえる。本文には、もともとは捨てるつもりだった芽の出た山預(山芋)を調理したところ非常に美味だったことに喩えて、人材を簡単に切り捨ててはならない道理が記してある。
宋米芾書送提挙通直使詩。冊。30.6x63 cm。
米芾(1052~1108)は北宋時代の書画家であり、鑑賞家でもある。本名は黻、字は元章。元祐6年(1091)に芾と改名した。徽宗帝に書画学博士として召され、官は礼部員外郎に至った。二王(王羲之と王献之)と顔真卿を基礎とする書は俊邁豪放な用筆で知られる。
釈文。
「三呉帖」とも言われる本作は江西地方で任官する友人に贈った詩で、名款は「米黻」となっている。器量が大きく寛大な三呉(古代の蘇州と湖州、呉江一帯の通称)の大丈夫だと友人を称賛している。当時は米芾も仕官したばかりで、友人の境遇や抱負に共感するものがあり、詩文を借りて互いに励まし合ったのだろう。