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台北 国立故宮博物院 その14 中国の玉器(新石器時代 良渚文化 斉家文化 山東龍山文化) 

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玉壁。良渚文化中晩期。
BC29002200年。国立故宮博物院。院蔵玉器精華展。
20171014日(土)。
BC3500年頃に長江下流域に興った良渚文化は北方の紅山文化とともに玉文化の双壁をなす。この時代にはシャーマンが強大な権力を掌握し、玉はシャーマニズムと密接に繋がっていた。
壁は太陽の軌跡(黄道)を象徴するものであった。
 
良渚文化はBC3500年ころからBC2200年ころの文化で、浙江省の杭州市良渚で最初に発掘された。沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
 
太古未開の時代、人間は苦労しつつ大自然と戦い、風・雨・水・火の過酷な状況を受けとめ、また四方に光を放つ太陽が宇宙の全ての生気を掌握していることを体得した。
生命を維持するのは、宇宙の次から次へと生じて止まない「元気」或いは「精気」と称される物で、原始人は天・地・日・月・山・川・草・木等の万物や風・雨・雷等の現象の全てに霊魂が宿り、全てが心霊であると信じた。
先人は美玉が隠し持つ「精気」は人と神を媒介でき、宇宙の運行の模式になぞらえたり、氏族の祖先の姿形に彫ると、反応する法力がより強くなると信じた。
 
新石器時代の中・晚期、BC60002000年には、散居していた部落は村落の連盟に発展し、徐々に国の形に向かって発展していった。社会が細分化し、階級が形成されると、聡明で神通力を持ったシャ-マンたちが人々を管理するようになった。王者はシャーマンたちの長であり、彼らは神秘的な力をもつ美玉を通して、神の知恵を吸い取り、天地と交信した。
 
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良渚文化。玉。
BC32002200年。
玉は円形の腕輪(円鐲)に、器物の表面に神々の姿を現わした方を組み合わせたた礼器である。
玉壁と玉は一組の礼器として扱われ、神々と交信するための暗号を、王やシャーマンたちが刻みこんだ。
内側は円筒で、外側は四角柱という器形には「天円地方」の思想がみられるとされる。しかし、「天円地方」の本来の意味は、宇宙の中にある陽と陰の気が、それぞれ別々に円形と方形の軌跡に従って巡ることを指している。「天道は円と言い、地道は方と言う」と記述する文献もあり、「道」は通路あるいは軌跡のことを意味している。
 
の外形は方柱状で、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており、は天地の結合のシンボルであると一般に考えられている。
 
の起源は良渚文化まで遡り、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる。良渚文化では璧と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが窺える。
 
良渚文化が衰えたのちも、は主に中原龍山文化へ伝播し、さらに西の斉家文化へと伝わっていった。周代に至り、は礼法で地をまつる玉器として規定された。
 
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良渚文化中期。玉。
BC29002500年。
玉には神や祖霊を象徴する眼が彫られている。本品は2節に分かれ、上層部は小さな眼をもつ神と祖霊、下層部は大きな眼をもつ霊的な動物を象徴しており、三者は一体的な概念であった。
また、その層序は神と祖霊は動物の上に騎乗するという発想に基づいていた。 
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玉鉞。良渚文化。
BC32002200年。
軍事指揮権を象徴するものとして尊重された。
 
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石鉞。良渚文化早中期。
BC32002500年。林燿振寄贈。
 
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石鉞。良渚文化早中期。
BC32002500年。林燿振寄贈
 
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玉孤刃刀。良渚文化中晩期。
BC29002200年。
 
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玉璧。龍山文化斉家系。
BC25001700年。
38.739.4cm、厚さ1.22.2cm
本品は6㎏をこえる重量があり、何回にも分けて磨き上げられたと思われる。中央の穴は片面だけが研磨され、施痕と割断痕が残る。
「天円地方」の宇宙観に基づいて、権力者たちはこのような円形の玉壁と方柱の玉をセットにして、天と地の神を祀った。
 
斉家(せいか)文化は中国甘粛省の黄河上流域を中心にBC2400年頃からBC1900年頃にかけて存在した新石器時代末期から青銅器時代初期の文化。名称は、1923年に考古学者ヨハン・アンダーソンによって発見されたこの文化の主要遺跡・斉家坪遺跡(甘粛省広河県)に由来する。
斉家文化の分布は黄河上流の甘粛省蘭州市一帯を中心とし、東は陝西省の渭水上流に及び、西は青海省東部の湟水河流域に、北は寧夏回族自治区および内モンゴル自治区に及ぶ。
斉家文化の陶器で主要なものは黄色陶器で、縄紋が多い。粟類が陶器から発見されており、仰韶文化の影響を受けた農耕文化があったことがわかる。大量の動物の骨が見つかっており、動物を飼い馴らしていたこと、動物の骨を焼いて占いを行っていたことがわかる。また銅も、銅鏡などの装飾のみならず道具作りに使われていた。
 
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玉。龍山文化斉家系。
BC25001700年。
 
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玉刀。龍山文化斉家系。
BC25001700年。長さ11.3cm
 
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玉圭。山東龍山文化晩期。
BC22001900年。
圭は鉞(まさかり)や鉋(かんな)などの刃のある器具で、器形は尺に似る。祭祀のさいに王やシャーマンが手に持ち、身分を証明するものである。
黄河下流に興った山東龍山文化は、紅山文化、良渚文化との交流があり、玉にもその面影を見ることができる。
山東龍山文化(BC25002000年)は、現在の山東省など黄河下流域に生まれた黒陶文化で大汶口文化に続いて現れた。麦・粟を主とする農耕や、牧畜・採集・狩猟が行われた。
 
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玉圭。山東龍山文化晩期。
BC22001900年。部分。
本品には、口から牙を剥き出している神祖面紋が彫られている。
渦巻きのような眼は紅山文化の影響と見られ、神の印とされる「介」字形の宝冠は良渚文化の影響と考えられる。「介」の字形は神と交信するという意味が込められている。
眼の左右に広がるのは鳥の羽と推定される。鳥は神と人間の仲介をする動物、あるいは神から命をもらって人間に贈る動物と考えられていた。

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