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台北 故宮博物院 18 漢字の源流 毛公鼎 宗周鐘

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毛公鼎。
西周晚期(宣王時代、BC828BC782年)。
高さ53.8cm 口径47.9cm。
国立故宮博物院。「漢字の源流展 毛公鼎と宗周鐘」。
20171014日(土)。
 
中華文化は夏・殷・周の三代の王朝で確立され、その文化の主軸となったのが「礼」と「楽」である。孔子は周公の「制礼作楽」を文化確立のための広い模範としていた。
礼楽文化は、国家の重宝である銅器に体現されている。礼器の中では「鼎」が首位にあり、楽器では「鐘」が上位に位置付けられている。祭祀の陳列と演奏に列鼎と編鐘が欠かせないものであったからである。
 
古代、「金」とは黄金色に輝く銅のことも指していたため、銅器に鋳刻されている銘文は「金文」とよばれる。また、銅の礼楽器は鐘と鼎が中心となるため、「鐘鼎文」ともいう。銅器に鋳刻された銘文は、功績や徳行を述べて宗廟に示し、祖先の名を上げるとともに子孫に代々伝えるものであり、史料・実録として確かなものであるだけでなく、漢字の発展史においても極めて貴重な根源とされている。
 
伝世の「宗周鐘」は、西周の王・胡が直々に製作させた礼器の中でも最も重要な楽器である。
「毛公鼎」は西周の宣王の叔父で重臣であった毛公が鋳造させた礼器であり、鼎の中には世界最長の篆書の銘文が鋳込まれている。
「宗周鐘」には122字、「毛公鼎」には500字の銘文が鋳込まれており、「嘗鼎一臠」、「聞鐘半響」などのことわざにあるように、二器合わせて620字あまりの「鐘鼎文」は、漢字の源流を探る題材とするには充分といえる。
 
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毛公鼎の胴内に鋳刻された銘文は
32行、500字(うち異体字10字、合字13字、欠落2字)である。
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清代の道光23年(1843年)ごろに陝西省岐山県で出土したという。幾度も持ち主を替えて秘蔵された末、中央博物館に寄贈された。
 
周の2代成王・3代康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。4代の昭王は南方へ遠征を行ったが失敗し、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。6代共王から9代夷王までの時期に礼制が改められ、王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、ひとまずの安定を得た。
10代王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まって、大反乱が起き、王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静(11代宣王)を擁して政治を行った
 
11代宣王の治世前期は周定公、召穆公を輔政とし国勢が中興し、宣王中興と称される時期を築いた。軍事面では秦仲や杜伯といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出したが、こちらは徐々に劣勢となり、BC789年の千畝(せんぽ)の役で姜戎に大敗した。
治世後期には政治面で君主独裁化が進み、杜伯の処刑など諸侯への圧迫を強めていったため、周王朝の求心力は徐々に低下へと向かった。
 
宣王が即位したころは、諸侯が新旧両派に分かれて闘争を繰り返していたため、国が乱れていた。。鼎の銘文に「…四方大いに乱れ定まらず」とあるのは、当時の動乱の局面を指していると思われる。。
 
銘文の最初の五段は「王若曰」、「王曰」で始まる勅諭であり、緊急に優秀な補佐を必要としていた宣王の切実な願いが現れている。第二段から第四段までは「~してはならない」、「~すべきはでない」、「~のような考えをおこすものではない」という強い命令文が連続して登場し、当時の情勢が動揺して不安定であったことや、毛公に危急存亡の際は命を投げ出す覚悟で対処するよう切実な要求をしていることがうかがえる。
 
毛公は周の宣王の冊命を受け、朝廷の百官を統率し、周王の内外の大小にわたる政事とあらゆる政令の布告に責任を負い、あわせて皇族の子弟の教育、侍衛、軍事、内政なども兼任した。従って下賜品も玉礼器、佩飾、官服、車飾、馬飾などと多く、その多さは金文のうちでも最高クラスで、封じられた官職の大きさがうかがえる。
 毛公鼎の銘文は、字数の多さや、勅諭の語句の華美さだけではなく、下賜品の豊富さをとっても、天下一の宝と称してさしつかえない。
 
 
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拓本。前半部。


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語訳。
「父厝よ、皇天は輝かしき文王・武王の徳に久しく満足され、我が周邦は天の御心にかなった」
 
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拓本。
王若曰 父厝,丕顯文武,皇天引厭劂,配我有周,膺受大命,率懷不廷方亡不覲於文武耿光。唯天將集厥命,亦唯先正略又劂辟,屬謹大命,肆皇天亡,臨保我有周,丕鞏先王配命,畏天疾威,司余小子弗,邦將曷吉跡跡四方,大從丕靜。嗚呼 懼作小子溷湛於艱,永鞏先王。


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拓本。第
13行。上段。
 
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拓本。第
13行。中段。
 
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拓本。王。
最終画に相当する箇所が▲形となっているのは、鉞(まさかり)の刃の形を描いたもので、「王は鉞である」という神話を宿していた。
このように、甲骨文や金文の古代文字には宗教的な神秘な力が宿ると考えられていた。
 
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拓本。天。
第1画に相当する箇所が楕円形をしているのは、人の頭を象っており、天とは頭頂であるという神話を宿していた。
 
 
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宗周鐘。西周晩期(王時代
BC857年~BC842年)。高さ65.6cm、幅35.2cm、銘文122文字。
「宗周鐘」は西周の王が製作した祖先の祭祀用の楽器で、造形は極めて整っており、銘文の言葉は高雅で、現存する天子が製作した器物の中で最も重要なものとされている。
 
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鐘本体の中央部。
鐘本体の両面には合計36本の長い乳丁が突き出しており、筒状になった柄部(甬)はまっすぐに伸び、荘厳な趣をたたえている。銘文は122字(うち異体字9字、合字3字)で、鐘本体の中央から読み始め、左に進み、背面の右側に続く。
楽器の主は周の王と推定されている。
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鐘本体の中央部。
 
周の第10代王の在位期間は佞臣・栄夷公を重用し、賢臣であった周公、召公等の諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた。
民衆の不満が募り、BC842年には民衆が王宮に侵入し、王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、周公と召公が代わって朝政を見る共和制が施行された。
 
銘文の内容。
王が南夷、東夷征伐に成功したことを記念に制作したことを記している。
王は文王、武王の徳に従って、四域の領土を固めることに勤め励んだ。南方の濮の国の君主が大胆にも周の領土をたびたび侵犯したため、王は軍を率いて親征し、濮の国の都まで追撃した。
そこで濮の国の君主は使者を遣わして臣服の意思を示し、同時に南方と東方の二十六カ国の代表もこれに随行して拝謁した。王は上帝と百神の加護に感謝し、この「宗周宝鐘」を製作した。もって勲功を記し、宗廟で奏すとともに、先王が子孫に福を授け、四方の太平が永遠に保たれんことを祈念する。
 
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語訳。
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拓本。
 
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拓本。
 
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拓本。

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