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台北 故宮博物院 19 青銅器 殷(商)

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国立故宮博物院。20171014日(土)。
中国の青銅器時代は夏の晩期(BC17世紀ごろ)から始まり、殷・西周・東周を経て、1500年ほど続いた。秦・漢以後は、鉄器が使用されるようになったが、銅器はやはり従来のしきたりのまま使われ、変わることはなかった。
 
当時、貴重な青銅器は貴族のみ、使うことができた。「国の大事は祀と戎に在り」。青銅は兵器や楽器のほかは、主に祭祀用の容器に鋳造され、供物を入れて祖先を祭り、家族の末永い繁栄を祈った。また、祭祀を行う際に置かれる礼器の数の多さが、貴族の身分と階級を象徴した。銅器は殷・周の貴族社会の中で最も重要な礼器であった。
 
殷・周の時代(BC1600BC221)は、中華文化を確立する重要な時代であった。政治面では、政教一致により、礼教と人文意識に目覚めた。物質面では、青銅鋳造の発達により、礼器・兵器用の新紀元が切り開かれ、また工芸技術の突破は、様々な産業の興隆を促した。精神面では、国の大事である「祀」と「戎」について、銅器の形を通して、神や祖先に対する畏敬の念と心霊との疎通を託した。また「銘文」を刻み、当時の祭饗、征伐、恩賞、冊命などの情況を記録した。
 
青銅文明は鐘・鼎・彝器の「礼と楽」でほめ讃えられ、功をなしとげ祖先を祭る「祀と戎」で賞賛された。周人が鋳造し紀銘した「其命維新」および「郁郁周文」には、東周の絢爛と賑わう新段階から、秦・漢の統一に至るまで、銅器は次第に礼制の中心から退いてはいくものの、むしろ一種の典型的なものへと転化し、更に深層な思想や文化の薀蓄も加わり、中華文化の美は、この一つ一つの器物の間にあって、広大且つ精緻を尽くし、きわめて高明に中庸を語っている。
 
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殷(商)後期 犠首獣面紋円口方尊。
BC13BC11世紀。酒器。
殷(商)代前期にはセットになった青銅酒器と食器が現れ、後期にはますます成熟していった。例えば食器の鼎・甗・鬲と簋・豆、酒器の觚・爵・觶・斝と罍、瓿、尊、卣、そして水器の盂・盤などの組み合わせは、商代後期にはよく見られた。
「尊」の器形は、大きく開いた口縁をもち、強く膨らんだ胴によく張った脚がついた形である。
 
犠首とは、動物の頭部を立体的に造形化した装飾をいう。犠首には、「虎犠首」、「羊頭犠首」、「象犠首」、「鳥紋犠首」、そしてカタツムリの頭部を造形化した「掌形角犠首」などがある。
本品は肩に犠首を鋳出している。
 
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殷(商)後期 乳丁紋羊首罍。 
BC13BC11世紀。盛酒器(貯蔵器)。
37.3㎝、口径31.3㎝、腹深27.2㎝、足径29x29.5㎝、足高10.3㎝。
罍(らい)は、盛酒器で、殷後期からみられ春秋時代以降まで長く製作された。壺や瓿と似るが、丈が高く、口部が小さく、頸部が短く、壺とは逆に器の上部の径が太く、底面が狭いのが特色。肩に一対の持ち手がつく。
この罍は、蓋のない本体と高台からなり、肩には羊の犠首が四つと、鳥形の犠首がついている。腹部と高台の付け根には、通気用の四角い孔が四つ開いている。この通気口によって、高台の中に炭を入れて器内の酒を保温できるようになっている。
 
肩には、細長い胴体に一角と一脚を有する龍の文様である夔龍紋(きりゅうもん)が施され、中央には突起したイボを持つ乳丁紋が施されている。
装飾には江西省や湖南省から出土した青銅器と似たものがあり、南方の作風とされる。
 
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殷(商)後期 亜醜父丙爵。 
BC13BC11世紀。酒器。
二里頭文化期から殷代には祭祀において酒の果たす役割が大きく、最初期に作られた青銅容器はもっぱら酒器であった。クロキビから醸造した神酒や収穫した穀物を神や祖先の霊に捧げ、祭祀の終了後の宴席においては、人々がそれらを飲食したと考えられている。
酒器のうちもっとも早く登場するのは「爵」と呼ばれる温酒・飲酒のための器である
 
この時代から、器に銘字を鋳出するものが現れるが、長文の銘はなく、器の所有者が属する一族の名と、その器を祀る対象となる祖先の名が記されている。
銘文にみえる「亜醜」の名は、現在の山東地方を地盤にしていた殷の大貴族の名である。祖先の名は「父」「母」「兄」などの文字と十干(甲乙丙丁など)の組み合わせで表記される。本品は父の丙のために製作された。
 
「族名」で結ばれた一族の祭器は、商周時代における「祀」が如何に盛大であったか、また一族が時の朝廷より、いかに寵愛と信頼を受けていたかを物語っている。
商代晩期の「亜醜」一族の銅器、「亜禽」銅尊と璽印、西周早期の作冊大方鼎および令方尊の「鳥丙冊」、西周中期の「周壷」と「周乎」などの族名は、祖先を祭り、子孫に希望を託すと同時に、器の製作者が功を立て、大きな栄誉を獲得した無限の喜びを伝えている。
 
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殷(商)末~周初。亜醜方簋。
BC11世紀。盛食器。
高さ18.4㎝、口径18.1cm
簋(き)は盛食器で、殷後期から現れ、春秋時代以降まで長期にわたり製作された。調理した穀物を盛るための断面円形の椀状の容器で、身が深く、圏足がつく。蓋や双耳を有するものもある。西周時代には方形の台座を有する儀礼的なものや、口が狭くすぼまった器形のものも登場する。
本品には鳥の造形をした見事な取っ手が付いている。
また、「亜」の字の銘が彫られており、「亜醜」一族が製作したことを示す。
 
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「亜醜」一族。
山東省青州市蘇埠屯の首長墓から青銅器多数が出土している。「亜醜」氏は「春秋左氏伝」に登場する諸侯貴族の薄姑氏と推定されている。薄姑氏は、殷代晩期に栄え、西周初期に2代成王(BC1043BC1020年)によって滅ぼされた。
 
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殷(商)晩期 獣面紋盂。
BC13BC11世紀。水器。
盂(う)は盛食器で、広口の鉢形の身に高台と把手がつくもので、簋に似る。殷後期から西周中期にのみ製作され、数も少ない。
本品は、水器として使用された。
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獣面紋。
 
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殷(商)後期 乃孫作祖己鼎。
BC13BC11世紀。食器。
81.8㎝、口径58.3㎝、重さ79.65㎏。
「乃孫作祖己宗寶黹量,祊賓」の銘文がある。
饕餮文(とうてつもん)で覆われている。
 
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銅器や玉器によく見られる獣面文・鳳鳥文および夔龍紋は、天神と祖先の霊と通じるための媒介とされ、のちに頭角崢、龍鳳紋および獣面動物紋を結合させた多様な紋様を発展させた。
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饕餮文(とうてつもん)は大きな2つの眼を強調した、左右対称の獣面文である。酒器などの主文様として、目立つ位置に表されていることが多い。眼のほかに大きく曲がった角と、牙をむき出した口を強調しているものが多い。饕餮は顔だけで胴体のない怪物ともいわれるが、実際の作例をみると、顔の両脇に細長い胴体と脚を表現したものも多い。

『呂氏春秋』「先識編」には「周の鼎には饕餮を表す」とある。饕餮は頭はあるが身体がなく、人を食って呑み込まないうちに害がその身に及んだ。つまり、罰を受けて身体がなくなってしまったのだという。

殷周の青銅器に表されている獣面文を饕餮文と呼ぶのは、宋時代の解釈に由来する。殷周時代の人々がこの文様を当時どのように呼んでいたかは不明であり、饕餮文は「獣面文」と称するのがより適切だとする説もある。
この文様の表す意味についても、正確なことはわかっておらず、当時の人々の想像した天帝の顔を表したものだとする説もある。
この文様は殷前期から西周前期の青銅器に盛んに用いられ、西周末期には姿を消した。

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