蟠爬紋鼎。秦。春秋時代。BC8~BC5世紀。
国立故宮博物院。2017年10月14日(土)。
春秋時代の典型的な秦式の礼器は、浅腹無蓋立耳肥足であったが、戦国時代中期からは晋や魏の影響を受け、深腹半円蓋中足スタイルに変形していく。
春秋戦国時代になると、西周時代に一時栄えた王臣の器は、次第に消失し、これに取って代わったのが列国で製作された銅器であった。新興の軍功貴族や商いを営む富豪たちは、銅器の装飾と技巧を一層重視した。
殷周以来の荘厳で慎み深く穏やかだった文様の風格は、精巧で込み入った模様に変わり、各種の象嵌、塗金等、新奇な趣の工芸が次々と表れ、優美で華麗な芸術効果を生みだした。銅器の製作は実用性と功利性を兼備しており、物に製造者名を刻み込む「物勒工銘」の銘文形式も、管理制度に対しての重視を意味している。
東周以降、礼と楽も廃れていった。政治面では群雄割拠の局面を迎え、強きが弱きを抑圧し、多勢が寡勢を虐げ、礼制においては分を超えた厚葬、階級観念の乱れが見られ、生活面では貴族が贅沢を競い、新興器物が続々と現れた。
「礼楽征伐は天子より出ず」が次第に「諸侯より出ず」となり、更には「大夫より出ず」と変化すると同時に、地方色の濃い礼、楽、車馬、兵器、璽印等が勢いよく発展した。
こうした物質文明の背後に於いて、百家争鳴と中国における儒教や道教の思想哲学が確立し、絢爛たる精神文明はこうした多様な器物と映え合っていた。
国差甔(だん、古文:缶)。酒器。斉。春秋時代中期。BC6世紀。
高 34.6 cm、径 47 cm。
銘文。
斉には公族をふくむ強大な貴族である国氏・高氏・鮑氏・崔氏・慶氏・陳氏の六氏があったが、なかでも斉公室と同じ姜姓の国氏と高氏が上位の官である正卿をしめていた。
国佐(差)は、春秋時代・斉の第23代頃公(けいこう、BC599~BC582年)時代の正卿。頃公は春秋五覇の桓公の孫。BC589年大国晋と戦った「鞍の戦い(華不注山の戦い)」で大敗した。このとき、国佐が使者に立って晋と講和した。頃公の子24代霊公の九年(BC573年)に、以前から不信感を持っていた霊公により、国佐は処刑された。
子犯龢鐘。編鐘12点。春秋時代中期。楽器。BC7~BC6世紀。1994年購入。
龢(わ)は音律などが調和するという意味。
製作させた子犯は晋の文公の家臣狐偃(こえん)の字である狐偃は春秋の覇者となった重耳(晋の文公)の母方の叔父である。子犯は文公がまだ公子の身分で、各国を流浪して亡命生活を送っていた頃から彼に付き従い、文公即位後は重臣として軍事や政治に手腕を発揮した人物である。その事績は『春秋左氏伝』・『国語』・『史記』といった書物に詳しく見える。
8点の鐘ごとに銘文が記されており、連続して132字になる。
出奔19年の後に晋に帰って権力を掌握したことが、「來復其邦」と記されている。
城濮の戦いは、BC632年に晋の文公と楚の成王が、城濮(現在の山東省菏沢市鄄城県)で激突した戦い。晋の文公が覇者としての地位を確立した戦いである。
戦勝後、晋の文公は践土(現在の河南省新郷市原陽県)に仮の王宮を作り、諸侯と会盟し、周の襄王を招いて楚の捕虜や戦利品を献上し、王から策命を受けて侯伯(覇者)に任じられた。
子犯龢鐘。第1鐘。
子犯龢鐘。第1鐘。銘文。
子犯龢鐘。第1鐘。銘文。拓本と釈文。
隹(唯)王五月初吉丁未。子犯佑晉公左右、來復其邦。者諸 楚荊。
唯(これ)王の五月初吉丁未。子犯 晋公の左右を佑(たす)け、其の邦に来復す。」
子犯こと狐偃が文公の19年にわたる亡命生活を助け、文公が君主として即位したことをさす。
子犯龢鐘。銘文の全体。
現代語訳。
王の五月初吉丁未の日。子犯は晉公を助けてその側に居り、晉に歸國した。楚とその同盟國は周王の命令を聽かなかった。子犯と晉公は西の六師を率いて、楚を攻擊し、大いに功績があったことを喜んだ。
楚はその師を失い、その邊境の領地が滅びた。子犯は晉公を助けてその側に居り、侯をまとめて周王に朝見させ、周王の王位を安定させることができた。周王は子犯に輅車とそれを引く四頭の馬・衣裳・黼市・冠を賜った。侯は良い銅を子犯に獻上し、それを用いてこの龢鐘九堵を鑄造した。(この鐘は)甚だ美しくかつ大きく、よく調和してかつ鳴る。これによって宴し安んじて、祭祀を執り行う。長壽が萬年までも止まることがないことを祈る。子子孫孫までこの鐘を永く寶として用い演奏せよ。
鳥紋戈。獣面紋戈。袋形斧。2点。戦国時代。BC5~BC3世紀。
夔形獣紋鼎。戦国時代。BC5~BC3世紀。
杯形壺。酒器。戦国時代中期。BC4~BC3世紀。
菱形紋剣。趙。戦国時代早期。BC5~BC4世紀。
四牛鼎。戦国時代。BC5~BC3世紀。通蓋の高さ21.6cm 口径19.2cm
狩猟紋壺。酒器。戦国時代早期。BC5~BC4世紀。高36.6㎝、最大径27㎝。
文様には北方の遊牧民の影響が考えられる。
曽姬無卹壷。酒器。戦国時代早期。楚の宣王26年(BC344年)銘。
通高78.3cm、器高68.8cm、腹深55.8cm。
この壷は一対の丸い蓋、角形の腹を持つ方壷である。全体に楕方形を呈し、口はやや外側に広がり、首は長く、腹部は膨らみを持ち、下には方形の高台がある。頸の部分には龍の形をした一対の耳がある。蓋はやや盛り上がり、上にはS字形のつまみがある。首には装飾用に仰葉文、二つの蟠虺(ばんき)文が施されている。腹部には十字形の突起があり、これによって八つの空間ができている。上の四つの空間には蟠虺文が施され、下の四つの空間は無地である。二つの壷の口の内側には、五行三十九文字から成る同じ銘文が鋳込まれている。
銘文:「隹(唯)王廿又六年,聖(聲)之夫人曾姬無卹,(吾)安茲漾陵蒿間之無(匹),甬(用)乍(作)宗彝尊壷,後嗣甬(用)之,(職)才(在)王室。」(訳文:楚の恵王熊章の二十六年、王妃の姫無卹が、山川を祭り酒壷を鋳造し直系の子孫に伝える宝として、永遠に王室に服事する)
銘文には、楚の宣王26年(BC344年)、楚の声王(在位BC407~BC402年)の夫人、曽無卹が自分のために、漾陵蒿に葬地を選んだことが記述されている。『史記・楚世家』の記載によると、楚の声王が即位から6年後、盗賊によって殺された。
若くして夫を亡くした曽無卹は晩年、自分が声王の墓に葬られないことを知り、この壷に自分の葬地を記した銘文を鋳込ませた。その本心は、楚の王室が自分を祭ることを忘れないでほしいというものだった。銘文の字体は典型的な戦国時代の楚系の文字で、銘文の内容と共に史料としての価値を備えている。
曽姫無卹壷は1932年に安徽省寿県朱家集李三孤堆の幽王墓で見つかり、その後、劉体智氏が所蔵していたが、本院の重要な文物となった。この壷が制作された年代は明確で、造形には躍動感があり、文様は細密で、器物の体積が大きく、雄渾な気勢にあふれている。まさに東周の楚系の青銅器の代表作である。
四山紋鏡。戦国時代。BC5~BC3世紀。
「山」の字のような紋様を4個あしらっている。「山」字状の紋様の意味については、①四岳を象徴する、②他の紋様(鉤連雷紋)から派生、など諸説あるが、定かではない。
山の文字の数が三字(三山字紋鏡)四字・五字・六字のものが確認されている。
三龍紋鏡。戦国時代。BC5~BC3世紀。