2018年6月30日、名古屋の老舗百貨店「丸栄」は最後の営業を終えた。数か月前から話題になっていたが、6月30日当日に久しぶりに訪れた。
丸栄は1615年に前身の小間物商「十一屋」が創業し、1943年、百貨店「十一屋」と「三星」の戦時統合で百貨店「丸栄」が誕生した。1955年ごろの丸栄本館は売り場面積で西日本一の規模を誇ったという。
以後、松坂屋や名古屋三越(旧オリエンタル中村)、名鉄百貨店と並び、四大百貨店。「4M」と称された。1992年2月期に売上高はピークの825億円を記録したものの、バブル崩壊後はインターネット通販の台頭などで苦境に陥り、2017年2月期には売上高が168億円まで落ち込み、3期続けて最終赤字を計上。建物の老朽化もあり、閉店の決断を余儀なくされたという。
西隣の明治屋ビル。(改装中)。
西側の壁画。図案は不明。
パネル展。
昭和31(1956)年テレビ放送された「伸びゆく丸栄」が放映されていた。
昭和30年高松宮両殿下が出席された全館完成祝賀式典、屋上遊園地の様子などが撮影されている。
昭和48(1973)年11月20日。オイルショックのころ、薄暗い店内で節約の要望を聞く社員たち。
昭和48(1973)年3月1日からのチラシ。テレビは高かった。
昭和48(1973)年3月1日からのチラシ。呉服が中心。
ジオラマ。現在と昭和20年代の丸栄。
建物の説明リーフレット。 (拡大可)
現在の丸栄本店は、代表的なモダニズム建築家の村野藤吾の手によって設計され、1953年に完成した。百貨店建築として日本建築学会賞作品賞を受賞した全国唯一の建築として知られ、また、「戦前期の建物を基に増改築を重ねた全国でも珍しい建物」として日本建築学会が取り壊しの中止を求める要望書を出している。
村野藤吾は昭和期を代表する建築家で代表作の一つに日生劇場(1963年築)がある。仕事上、1980年代から村野藤吾の建築作品に何があるのかは知っている。2005年に宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が村野の作品として初めて国の重要文化財に指定され、私は、2012年11月に見学した。
丸栄本店は、それほど魅力ある建物には見えないのは残念。
村野藤吾の愛読書がマルクスの「資本論」だったというのは、白眉の小ネタ。
名古屋市内では、栄地区が商業・エンタメの中心であったので、私も1960年代半ばからは、栄地区へ出かけることが多くなった。デパートだと、丸栄かオリエンタル中村百貨店へ行くことが多かった。当時はデパートに書籍売り場や家電売り場があり、書籍の紙カバーがデパートごとに特徴があり楽しかった。
屋上にはジュークボックスがあり、洋楽を聞いたことも懐かしい。ワイルドワンズが「青空のある限り」を発売したとき販促で開催された屋上でのライブを見たのは1968年ごろのことか。
80年代初めには田中一村などの展覧会も見学したし、陶磁・書画・絵画などの美術骨董系は他のデパートより優っていた。
1980年にオリエンタル中村百貨店が名古屋栄三越に変わってしまったことに次いで、丸栄の閉店にも栄枯盛衰を感じざるをえない。
丸栄の象徴だったエレベーターの扉絵は東郷青児の原画。初めて見た時は新鮮だった。
屋上。ビアガーデンになっており、入場料が必要だった。北西隅に稲荷神社の赤い鳥居が見えた。
「御座候」に並ぶ行列。懐かしかったので、赤餡を1個だけ購入して食べた。
つぶ餡が美味い御座候は1990年代末ごろに、母親がよく買っていた。亡くなってから2005年ごろに、丸栄カードに入会し、一度だけ割引で購入したことがあった。
名古屋の重心も、JR名古屋高島屋の進出以来、名古屋地区が栄地区を追い抜いていったが、集積度からいえば、まだ栄地区も多いので、魅力的な空間造りができれば、どちらにも発展してもらいたい。
丸栄の建物は、今年9月ごろ解体に着手し、跡地は新たな商業施設に生まれ変わる予定という。
業界は、百貨店自身がもつブランド力・レガシー力で生き延びていくしかないのではないか。ロンドンでいえは、ハロッズやリバティで缶紅茶やリバティプリントを購入したことを思い出すが、今も同じように愛されているようだ。そのデパートでしか買えないオリジナルブランドを企画開発できるかどうかだろう。