1966年前半ごろ、学校・新聞で「空に星があるよう」が評判になり、東海ラジオの番組「星に唄おう」をたまに聞いた。
私としては、初めてのレコード盤を購入した。それまでは、廉価なソノシート盤だった。次の「今夜は踊ろう」もいい曲だったので、1966年12月に発売された4曲入りのEP盤を購入した。お年玉で翌年1月に購入したのかも。B面扱いの「夕焼けの丘」「あなたといるだけで」ともども、叙情的な歌詞とメロディーは素晴らしかった。
1967年5月15日発売の「いとしのマックス」はGS的な曲でヒットし、その年末のNHK紅白歌合戦に初出場した。
「一人GS」という言葉は初めて知ったが、当時も今もそんな気分の悪い造語はないだろう。
母親は女優の荒木道子で、その息子という親の七光りで役者もやったが、あまり記憶がない。加山雄三のような派手なスター性はなかった。
1967年から2年間はGSブームと、クリームなどの登場に沸き立っていた音楽シーンが続き、荒木一郎は話題に上らなくなっていた。
1969年2月7日、そこへ、突然、降って湧いたのが、荒木一郎の強制わいせつ事件で、新聞・テレビを興味深く読んだことは覚えている。荒木一郎(当時25歳)が隠し部屋で隠し撮りをしたように覚えていたが、強制わいせつ致傷で逮捕されたという。
荒木は最初、被害女性に会った事実は認めたものの、イタズラについては否認したまま、薄暗い留置場の中で黒いサングラスなどかけていたらしい。しかし、医師の診断書に「左頚部、左肩、両大腿部に5日間の打撲傷」とあるため、逮捕後ほどなくして全面自供した。荒木を取り調べた町田署・田代次長によると、「六本木の荒木が主催する会社の関連ビルに連れ込み、カメラテストと称してパンティ1枚の姿を撮った。演技指導などと言っているが、パンティの下に手を差し入れ、いじくり回したりする必要があるんだろうかね。女の子も、あんまり変なことするので逃げ出したと言っている。」という。
その時点で荒木一郎の芸能界人生は終わったと最近まで思いこんでいた。これに匹敵するのが、克美しげるの殺人事件だったが、荒木一郎はそこまで極悪人ではない。といっても、「エイトマン」は克美しげるしか歌えない。
随分昔からネットで検索していたが、数年前からWIKIが突然詳しくなり、荒木一郎がミュージシャン仲間からリスペクトされており、楽曲の提供などもしていることを知った。才能のある人だなとは思うし、名曲は名曲で残るとも思っている。
何も事件がなければ、荒井由美のような存在だろうが、華やかさはないので、音楽プロデューサーとして大成したのではないだろうか。