台北。国立歴史博物館。
2017年10月19日(木)。
1955年に創設され、かつての河南省博物館の収蔵品を展示している。中国河南省の新鄭・輝県で出土した春秋時代の青銅器と玉器、洛陽で出土した唐三彩といった考古資料や質量とも豊かな貨幣コレクションなどを展示している。日本語のリーフレットによれば、戦後日本から返還された文物もあるという。ミニ故宮博物院ともいうべき、期待以上の美術館であった。入館料30元。
旧・台湾総督府専売局庁舎(現・台湾菸酒股份有限公司本社)を見学後、10分ほど歩いて15時30分に入館し、17時頃まで見学し、ほとんどの展示品の写真も撮影した。
坐佛七尊造像碑。北斉。武平7(576)年。石灰岩。
高132㎝、幅56㎝、奥行21.5㎝。
額部は欠損しているが、碑身は三層に分かれる。碑の背面に大斉武平七年の造像題記がある。
上層の七尊像のうち、主尊は須弥壇の上に偏柦右肩で結跏趺坐している。主尊の両側に比丘立像、、辟支仏立像、脇侍菩薩立像。中層の中央に、交脚菩薩三尊像。下層は供養図で、左右に男女の供養人、その下に2匹の獅子像と小人が捧げ持つ大香炉が置かれ、燻香により四辺を供養している。
中国の仏教美術。「中国の仏教美術」(久野美樹、1999年)、「世界美術大全集 東洋編3」(2000年)などを参照。
仏教が伝来した後漢時代の仏像は、道教や神仙思想など結び付けられた造形であった。
五胡十六国時代になると、各国の君主は優秀な僧を招聘した。金銅仏にはガンダーラ様式の影響を受けたものが多い。
敦煌・莫高窟が作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。
この地域は河西回廊または涼州とよばれ、石窟の造像様式である涼州様式は後代に影響を与えた。
南北朝時代。北方では、鮮卑族の王朝である北魏が台頭し、439年に華北を統一した。471年に即位した孝文帝は漢化政策を推し進めた。534年、北魏は、西魏と東魏に分裂した。西魏は北周へと、東魏は北斉へと王朝が交代した。577年には北周が北斉を滅ぼしたが、581年に、鮮卑系の隋が北周にとって代わった。589年に、隋は陳を滅ぼした。
南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住し、江南の開発が進んだ。貴族が大土地所有を行い、国政を左右した。貴族階層の者により散文、書画等の六朝文化と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、宋・斉・梁・陳という4つの王朝が江南地方を支配した。梁の武帝は仏教の保護に努めた。
北魏(386~534年)の493年、都の平城(現・山西省大同市)から洛陽(河南省)への遷都を境に、美術史上は前後半に分けられている。
北魏前半は、大筋ではガンダーラ由来の涼州様式の流れを汲んで造像された。
雲崗石窟(大同市)の造像も当初はインド様式が採用されたが、5世紀後半の孝文帝の漢化政策により、中国式服制が出現した。従来は偏柦右肩式(右肩を肩脱ぎにし、左肩のみを覆うこと袈裟の着方)であったが、袈裟が両肩・右胸・右腕を覆い、胸元を開けて左腕に末端部を下ろしている。
衣が幾重にも重なり、体の線や肌の露出も少なくなり、肌の露出を嫌う漢民族の美意識に改められていった。
北魏後半は、漢化・貴族化が進み、洛陽郊外に造営された龍門石窟にもその美意識が反映されている。
様式上の特徴は、中国固有の造形が目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる点である。
僧祇式(下着)などの衣を重ね着して体の線をあらわにせず、衣を双領下垂式(左右双方の襟が下に垂れる)にまとい、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える。また、裳懸座(裳裾を台座に垂らす)が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる。
北斉(550~577年)は、高氏によって建てられた。首都は鄴(ぎょう、現・河北省邯鄲市臨漳県および河南省安陽市)におかれ、僧尼400余万、4万余寺といわれる仏教の隆盛をみた。
北斉様式の仏像は、薄い衣を着て、肌を露出し、丸みをおびた体躯の滑らかな輪郭と曲面を意識して見せるものだった。衣褶は布の厚い重なりではなく、衣は薄く単純で軽快な線条の反復によって表された。
着衣形式も北魏後半とは異なり、インド伝来の偏柦右肩式が復活した。
座り方にも変化が生じ、左足を右足の下に敷いて、左足の指先を見せる結跏趺坐が現れた。これは、ガンダーラにはなく、南インドやタイなどの東南アジアからの影響とみられる。
隋(581~618年)時代の特徴は、腹を突きだし、側面がくの字型となり、前後の動きが加わったこと、ボリュームがある点である。
唐(618~907年)。肉体や衣の表現に写実的、自然主義的な傾向がみられる。盛唐(712~762年)期には、あご、胸の筋肉、衣文線に写実性が高まり、顏や体のもつ丸みなどに全身の肥満傾向が始まった。中唐(762~826年)になると、抑揚の少ない肥満した像か、ややアンバランスに長身の像を造った。
仏陀立像。北斉。550~577年。石灰岩。高142㎝。
手・脚、首は修補されている。荘厳で体に貼りつけたような衣から北斉の新しい様式が現出したことを示している。
わずかに肉髻の盛り上がりを示す低平な頭部の髻は小さく螺旋形に結んでいる。まぶたは長円形で、細目、眉は湾曲している。頬は豊かである。唇は堅く閉まっている。衣文は流暢簡潔優雅で体に貼りついている。肩が丸く、身体は厚みがある。手指は毀損していたが、右手は施無畏印、右手は与願印と推測される。
四面仏龕像碑。北斉。550~577年。石灰岩。高84㎝。
一面ごとに三つの龕がある。多くは方形の尖拱(アーチ)形の龕である。龕底部に銘記があったが、破損して西面のみに大斉の二文字が残っていた。正面と反対面に三つの龕があり三尊の坐像が刻まれている。碑の東西両面には西面中層に思惟菩薩が龕外に刻まれているのを除けば、仏坐像が刻まれている。両側面の仏像は対応関係にあり、東面は歓喜仏、阿閦仏、登明仏、西面は定光仏、弥勒菩薩、無量寿仏である。その中で、弥勒菩薩は思惟菩薩を形象表現したものである。こういった龕像の組合せが北斉時代の特徴であった。
千仏造像柱。北斉~隋。(550~618年)。石灰岩。
高200㎝、幅35㎝、奥行27㎝。
基部の痕跡から、もとは石窟・寺院の列柱の一つであったとみられる。755体の尊仏坐像が確認される。低部の龕には七尊像があり、一仏二菩薩二比丘二力士像が刻まれている。下方には獅子と香炉により供養されている。
低部左右の龕には三尊像があり、いずれも主尊は蓮台に乗る。左側は坐像で、右手は施無畏印、右手は与願印。右側は立像で衣は薄い。北斉末期の特徴を具えている。
仏坐五尊像碑。隋。581~618年。石灰岩。高99㎝、幅56㎝、奥行27㎝。
尖拱(アーチ)形の龕に一仏二比丘二菩薩の五尊が刻まれている。下方には力士と一対の獅子像が刻まれている。主尊は蓮台に座り、光背は背にして、右手を施無畏印に、左手を与願印にした印相である。
二菩薩は蓮台に乗り、頭には冠を戴く。その上に水瓶を載せるものは勢至菩薩で、仏陀を冠飾とするものは観世音菩薩である。龕の底部に供養人の身分と造像碑が刻まれていたが、破損部が多い。衣を簡潔な線条で刻むのが隋代仏像の特徴である。