ダナンからフエへ向かうバスの車窓風景。河口に架けられた鉄道橋と田園風景。2013年1月23日(水)。ハノイ空港から9時20分発の飛行機に乗り、10時35分ダナン空港へ着いた。空港からタクシーでダナン市内へ行き、フエ行きのバスを尋ねて、乗車。バスは5万ドンと安い。
ダナンからフエへ向かうバスの車窓風景。シンプルな単線。2日後にフエからダナンまで鉄道に乗車した。
世界遺産・阮朝王宮に入る橋。フエのバスターミナルからタクシーで宿のホテル・ミキへ向かう。オーナーが日本人女性で、旅の相談にも乗ってもらえる。ここで2泊。ロビーにパソコンがあったが、ネットに繋がらず残念。ホテルは街の南西にあり、世界遺産の阮朝王宮まで徒歩圏内なので、15時頃から歩いて向かった。フォーン川に架かるフースアン橋を抜け、王宮の外堀の内側に連なる城壁に開口するガン門を通る。幅は狭いがタクシーやバイク、人も通行する。ガン門は見るからに風格がある。
阮朝王宮の立体模型。紫禁城跡回廊内の展示。フエは、ベトナム最後の王朝である阮朝(グエン朝、1802~1945年)の都が置かれていた町である。
1801年、フエを奪還した阮福映(グエン・フック・アイン)は一旦城を修築するが、その後全土を掌握し越南国王(嘉隆帝)として即位した彼は、1803年(嘉隆二年)ベトナム全土の都として誇るべく都城の大規模な増築を始めた。
旧都城の背後を流れていた香江(フォン川)の2本の支流が埋め立てられ、香江(フォン)の北岸500haを超える土地にほぼ正方形を為す都城が計画された。そこでは中国の伝統的な都市計画を踏襲する一方で、フランスの影響を受けヴォーバン式の城壁が用いられている。
周長10kmにおよぶ城壁は、高さ6.6m厚さ21mの重厚なもので、四面に400基の大砲で武装した24の稜堡を備え、鋸歯状に廻る。
各稜堡の間には10ヵ所に門が通り、各々に2層の監視塔が設けられている。城壁の外には幅23mの濠が廻らされ各門からの石橋で外と結ばれているが、その外側にはさらに護城河と呼ばれる香江から引かれた幅40mの濠が廻り幾重もの防衛線を形成している。
高さ5mの城壁で囲まれた600m四方の王宮には、80もの柱によって支えられた、巨大な装飾屋根の宮殿が建てられた。
1801年、フエを奪還した阮福映(グエン・フック・アイン)は一旦城を修築するが、その後全土を掌握し越南国王(嘉隆帝)として即位した彼は、1803年(嘉隆二年)ベトナム全土の都として誇るべく都城の大規模な増築を始めた。
旧都城の背後を流れていた香江(フォン川)の2本の支流が埋め立てられ、香江(フォン)の北岸500haを超える土地にほぼ正方形を為す都城が計画された。そこでは中国の伝統的な都市計画を踏襲する一方で、フランスの影響を受けヴォーバン式の城壁が用いられている。
周長10kmにおよぶ城壁は、高さ6.6m厚さ21mの重厚なもので、四面に400基の大砲で武装した24の稜堡を備え、鋸歯状に廻る。
各稜堡の間には10ヵ所に門が通り、各々に2層の監視塔が設けられている。城壁の外には幅23mの濠が廻らされ各門からの石橋で外と結ばれているが、その外側にはさらに護城河と呼ばれる香江から引かれた幅40mの濠が廻り幾重もの防衛線を形成している。
高さ5mの城壁で囲まれた600m四方の王宮には、80もの柱によって支えられた、巨大な装飾屋根の宮殿が建てられた。
王宮門。午門ともいわれ、内堀に面している。高さ約17mの二層式の中国風の門で、左右に翼楼が付設している。午門は明命(ミンマン)帝により、北京の紫禁城の午門に倣ったもので1833年(明命十四年)に建造された。
磚を積んだ凹型平面の台状構築物の上に、同じく凹型に並んだ五つの樓からなる五鳳樓をのせた午門は、北京のそれをフエの皇城の規模に合わせて両翼を短くしたミニチュア版である。
最後の皇帝保大(バオダイ)が退位を宣言したのもこの午門の臺上であった。
チケット売り場があり、ここから入場する。
磚を積んだ凹型平面の台状構築物の上に、同じく凹型に並んだ五つの樓からなる五鳳樓をのせた午門は、北京のそれをフエの皇城の規模に合わせて両翼を短くしたミニチュア版である。
最後の皇帝保大(バオダイ)が退位を宣言したのもこの午門の臺上であった。
チケット売り場があり、ここから入場する。
太和殿。1804年に、北京の紫禁城を真似て建造された。
太和殿には玉座が置かれ、即位式や外国使節の引見、元旦の朝賀など宮廷儀式の舞台となった。殿前の大朝儀と呼ばれる拝庭には正一品から従九品までの官位の記された石碑が並び、朝儀の際には百官が各々その定められた位置に整列した。
太和殿には玉座が置かれ、即位式や外国使節の引見、元旦の朝賀など宮廷儀式の舞台となった。殿前の大朝儀と呼ばれる拝庭には正一品から従九品までの官位の記された石碑が並び、朝儀の際には百官が各々その定められた位置に整列した。
太和殿から北の紫禁城方向を眺める。
紫禁城跡。かつての皇帝の居住区であった紫禁城は皇城の中央、太和殿の背後にあり、東西342m南北308mの敷地は高さ4mの周壁に囲まれていた。紫禁城の中心には勤政殿、乾成殿、坤泰殿が並ぶ。その左右には皇帝の多くの妾妃や皇子皇女の住んだ諸殿、閲是堂(えつぜどう)と呼ばれる劇場、紹芳園や御園と呼ばれる庭園などがあり、それらは皆回廊によって結ばれていた。その回廊は東西の各門を通り、紫禁城外の嘉壽宮・長寧宮・幾暇園へとつなげられていた。
ベトナム戦争の戦火によって半数の建物は全壊、残る半数も相当の被害を被り、王宮は廃虚と化した。特に紫禁城内の被害は激しく、左廡、右廡、閲是堂、太平御覧書樓など若干が残るに過ぎない。
大宮門をはじめ勤政殿や乾成殿などの諸殿は何れも存在せず、勤政殿跡に立つ龍壁の裏にはただ野原が広がっている。草に埋もれた基壇だけが、かつてここに大宮殿があったことを知らせる。
ベトナム戦争の戦火によって半数の建物は全壊、残る半数も相当の被害を被り、王宮は廃虚と化した。特に紫禁城内の被害は激しく、左廡、右廡、閲是堂、太平御覧書樓など若干が残るに過ぎない。
大宮門をはじめ勤政殿や乾成殿などの諸殿は何れも存在せず、勤政殿跡に立つ龍壁の裏にはただ野原が広がっている。草に埋もれた基壇だけが、かつてここに大宮殿があったことを知らせる。
紫禁城跡。復元された回廊。
顯臨閣。太和殿の左側の区画は阮朝歴代皇帝を奉った世廟が置かれた。その最南端に阮王朝の菩提寺である顯臨閣がある。その庭には明命帝が造らせた歴代の皇帝の名前を記した9つの大きな青銅の鼎が置かれている。
鼎の重さは約2tで直径は1.4mという。鼎の表面には鳥獣・植物・フエ近郊の風景・天体などの様々なモチーフが彫られている。
鼎の重さは約2tで直径は1.4mという。鼎の表面には鳥獣・植物・フエ近郊の風景・天体などの様々なモチーフが彫られている。
顯臨閣。中央のひときわ大きな鼎は初代のザーロン帝を象徴したもので偉大さを表している。
17時近くになり、閉園時間が近づいた。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」へ向かうため、王宮門ではなく、東の門から出た。
17時近くになり、閉園時間が近づいた。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」へ向かうため、王宮門ではなく、東の門から出た。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。王族の血を引く由緒ある家柄の一族が経営すると、歩き方に書いてあったので、夕食をここで食べることにした。
17時頃に着き、園内で散水している人に尋ねると、ディナータイムは19時からと言われたので、2時間近くの時間を利用するため、エッフェルが設計したというチャンティエン橋を通り、高級ホテル街にある旅行代理店まで歩いた。
ここで、翌日のDMZツアーを予約した。疲れたので、タクシーで「ティン・ザー・ビエン」へ向かった。
17時頃に着き、園内で散水している人に尋ねると、ディナータイムは19時からと言われたので、2時間近くの時間を利用するため、エッフェルが設計したというチャンティエン橋を通り、高級ホテル街にある旅行代理店まで歩いた。
ここで、翌日のDMZツアーを予約した。疲れたので、タクシーで「ティン・ザー・ビエン」へ向かった。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。前菜。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。パイナップルのランタン。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。兜の頭形をした魚形の野菜。手間はかかっている。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」。亀形のチャーハン。鳥型のパイナップル。
量が多くて、食べきれなかった。1人前20ドル。
横のテーブルには欧米人女性のグループがいたが、客は2組だけであった。
野菜などで動物の形に似せた華麗な盛り付けの料理ではあった。
タクシーでホテルへ帰った。
量が多くて、食べきれなかった。1人前20ドル。
横のテーブルには欧米人女性のグループがいたが、客は2組だけであった。
野菜などで動物の形に似せた華麗な盛り付けの料理ではあった。
タクシーでホテルへ帰った。