1801年、フエを奪還した阮福映(グエン・フック・アイン)は一旦城を修築するが、その後全土を掌握し越南国王(嘉隆帝)として即位した彼は、1803年(嘉隆二年)ベトナム全土の都として誇るべく都城の大規模な増築を始めた。
旧都城の背後を流れていた香江(フォン川)の2本の支流が埋め立てられ、香江(フォン)の北岸500haを超える土地にほぼ正方形を為す都城が計画された。そこでは中国の伝統的な都市計画を踏襲する一方で、フランスの影響を受けヴォーバン式の城壁が用いられている。
周長10kmにおよぶ城壁は、高さ6.6m厚さ21mの重厚なもので、四面に400基の大砲で武装した24の稜堡を備え、鋸歯状に廻る。
各稜堡の間には10ヵ所に門が通り、各々に2層の監視塔が設けられている。城壁の外には幅23mの濠が廻らされ各門からの石橋で外と結ばれているが、その外側にはさらに護城河と呼ばれる香江から引かれた幅40mの濠が廻り幾重もの防衛線を形成している。
高さ5mの城壁で囲まれた600m四方の王宮には、80もの柱によって支えられた、巨大な装飾屋根の宮殿が建てられた。
磚を積んだ凹型平面の台状構築物の上に、同じく凹型に並んだ五つの樓からなる五鳳樓をのせた午門は、北京のそれをフエの皇城の規模に合わせて両翼を短くしたミニチュア版である。
最後の皇帝保大(バオダイ)が退位を宣言したのもこの午門の臺上であった。
チケット売り場があり、ここから入場する。
太和殿には玉座が置かれ、即位式や外国使節の引見、元旦の朝賀など宮廷儀式の舞台となった。殿前の大朝儀と呼ばれる拝庭には正一品から従九品までの官位の記された石碑が並び、朝儀の際には百官が各々その定められた位置に整列した。
ベトナム戦争の戦火によって半数の建物は全壊、残る半数も相当の被害を被り、王宮は廃虚と化した。特に紫禁城内の被害は激しく、左廡、右廡、閲是堂、太平御覧書樓など若干が残るに過ぎない。
大宮門をはじめ勤政殿や乾成殿などの諸殿は何れも存在せず、勤政殿跡に立つ龍壁の裏にはただ野原が広がっている。草に埋もれた基壇だけが、かつてここに大宮殿があったことを知らせる。
鼎の重さは約2tで直径は1.4mという。鼎の表面には鳥獣・植物・フエ近郊の風景・天体などの様々なモチーフが彫られている。
17時近くになり、閉園時間が近づいた。
宮廷料理店「ティン・ザー・ビエン」へ向かうため、王宮門ではなく、東の門から出た。
17時頃に着き、園内で散水している人に尋ねると、ディナータイムは19時からと言われたので、2時間近くの時間を利用するため、エッフェルが設計したというチャンティエン橋を通り、高級ホテル街にある旅行代理店まで歩いた。
ここで、翌日のDMZツアーを予約した。疲れたので、タクシーで「ティン・ザー・ビエン」へ向かった。
量が多くて、食べきれなかった。1人前20ドル。
横のテーブルには欧米人女性のグループがいたが、客は2組だけであった。
野菜などで動物の形に似せた華麗な盛り付けの料理ではあった。
タクシーでホテルへ帰った。