台北。国立歴史博物館。
2017年10月19日(木)。
器の下底を于(う)というが,それがアーチ状に内湾し,上部にある棒状の甬(よう)に旋(せん)という吊り環がついている甬鐘の形式である。
胴は上が少し狭く,下方へいくに従って広がり,下辺は内側に弧を描く。上部には柄が,胴には乳形の隆起が多数つき,下辺中央部を槌で打つ。
祭りのときに祖先神を招き慰めると同時に自己および一族の繁栄を願うためのものであった。
器身の両側に縁を飾る扉稜(周囲に突出した線状の装飾)がある。器身の装飾は,篆部・鉦部に竊曲文,鼓部に蟠螭文,舞部に雷文がある。夔龍文(きりゅうもん)は細長い胴体に一角と一脚を有する龍の文様である。中国の青銅鐘は殷の晩期に始まる。
前11世紀の中ごろ、殷に服属していた周がしだいに勢力を伸ばし、やがて武王の時代に東方に進出して殷を滅ぼし周王朝を建設した。周は陝西省西安市西郊の鎬京(こうけい)に都したほかに、洛陽付近に第二の都として洛邑(らくゆう)(成周)を建設し、殷の遺民を統治するとともに、東方の政治と経済の中心を支配した。
周の文化は殷のそれをそのまま継承したもので、広大な領土を分割して重要な拠点には周と同姓の一族や異姓の功臣をそれぞれ封じて諸侯として統治させ、封建制度を確立した。
周の封建制が衰えた前770年ごろ都を東に移し、これより東周時代が始まるが、この時代の前半を春秋時代、後半を戦国時代とよんでいる。
春秋時代の後期から戦国時代初頭にかけて鉄製の工具や農具が出現し、のちには鉄製の犂(すき)をウシに引かせることも行われ、大規模な水利工事も行われた。鉄器の使用により、きわめて効率的な農耕が行われ、また耕地面積の拡大に伴い農業生産は著しい発展をみせ、貨幣経済の発達を促し商工業も栄え、諸侯の都城は繁栄を極めた。
高44㎝、口径(上甑)30㎝、口径(下鬲) 23㎝。
甗(げん)は、煮食器。下部は鬲(れき)、上部は甑(そう、こしき)で、中間に孔のある簀子(すのこ)があり、蒸気を通して食物を蒸すためのものである。殷後期に出現し、春秋時代以降も製作されるが、あまり広く普及しなかった。袋状の三脚をもつのが普通で、晩期になると方形の四脚器が現れる。
この方甗は方形の四脚器である。甑の口沿いに重環紋、下に凸弦紋、鬲の足部に目紋がある。器の內壁に「尹氏有司伯頌父作旅甗其萬年子孫永寶用」という十八字大篆書の銘文がある。
高90.3cm、最大幅39cm、最大奥行26.5cm、底径30x24cm、口径19.8x14cm。
壺は酒器である。この時代は大型の多飾の方壺が作られ、酒器の首座を占めていた。胴は下ぶくれし、大きくどっしりした圏足が外に向かって広がる傾向があった。
一対で使用され、対の1点は北京の故宮博物院が所蔵する。方壺の器形は西周を受け継いでいるが、底部は虎形の獣足をしており、南方の楚の影響を受けている。龍で象られた耳をもち、蟠螭文(ばんちもん)の装飾がある。蓋の上には網状の透かし彫りの蟠蛇文蓋冠が、失蝋法で製作されている。
蟠龍方壺は、1923年に河南省新鄭市鄭公大墓から出土した。鄭国の君主の墓と推定される墓からは蓮鶴方壺一対など100余点の青銅器が出土した。
方炉の中に「王子嬰次」の銘文をもつものがあり、諸説が提示されている。有力な説では、王子嬰次は、楚の荘王の弟でBC570年に亡くなった令尹子重とされ、この時代の青銅器とされている。
鄭(BC806~BC375年)は、中国の西周時代から春秋戦国時代まで存在した国。姓は姫で、周の宣王の同母弟、姫友(桓公)が鄭(陝西省渭南市)に封じられたことに始まる。西周滅亡の混乱を避け、武公のとき、都を新鄭(河南省新鄭市)に定めた。晋と楚の二大勢力の狭間で、晋に属しながらも楚に表向きには従うという「面従腹背」を繰り返した。BC375年、韓に滅ぼされた。
剣柄10.7cm、剣身22.6cm。
1935年河南省輝県琉璃閣甲墓から出土。
衛国の君主が所有したとされる。剣の身は狭小で、首(柄端)と茎(剣柄)は金製で、複雑な文様で装飾されている。楕円形の中空の首には蟠螭文(ばんちもん)と三角文・雲文、茎は螺旋文、格(剣柄と剣身の接合突出部)は獣面文が装飾されている。
河南省輝県南東部の琉璃閣遺跡は、戦国時期魏国の貴族の家族墓地である。1936年、当時の河南省博物館が琉璃閣遺跡に対し行った考古発掘調査により、甲墓と乙墓に命名された二つの大きな墓葬及び多くの副葬品を発見し、大きな話題となった。
衛(BC11世紀~BC209年)は、中国の周代・春秋時代から戦国時代にかけて河南省の一部を支配した諸侯国。衛の始祖は周の文王の九男の康叔である。
その領土は狭いとはいえ、黄河流域の中原の中心地であり、先進地帯であった。亡命時代の晋の文公や孔子を冷遇し他国へ追いやるなど、優秀な人材は定着しなかった。また、公族であった商鞅は魏を経て秦に仕えて活躍している。
戦国時代には韓・魏の半属国状態となり、最後の君主・衛君角がBC209年に秦の二世皇帝(胡亥)に廃されることによって滅んだ。
魏(BC453年~BC225年)は、戦国時代に存在した国で、戦国七雄の一つ。
魏の始祖は周の武王の弟である畢公高(ひっこうこう)である。春秋時代に入り、子孫の畢万が晋の国で仕官した。BC453年に韓、趙と共に晋から独立し、その地を三分した。東に斉、西に秦、南に韓と楚、北東に趙と国境を接していた。
BC445年に即位した文侯の治世では、周辺諸国を討って国力盛んとなり、七雄の中の最強国となった。BC403年、韓・趙と共に諸侯の列に加えられると、これより戦国時代が始まる。
首府は安邑(山西省)であったが、BC340年に商鞅率いる秦軍に大敗し、遷都して大梁(河南省開封市)に移った。秦に攻められてBC225年に滅亡した。
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左)圭援長胡式戈。(中)戟。(右)鳳首文直内戈。春秋時代。
BC770~BC403年。晩期。
3点とも河南省輝県琉璃閣甲墓から出土。
戈(か)は、敵を打ち据える動作によって殺傷するのに適した穂先を持つピッケル状の長柄武器である。
戟(げき)は、戈と矛(ほこ)を組み合わせた青銅製武器で、西周時代以後に多く使用された。矛と戈が合鋳された刺援同体式の戟が基本だが、春秋時代後期からは,戈と矛が別体の刺援異体式の戟が多くなり,戦国時代にかけての戟はこの形式が中心になる。