海貝。商(殷)~西周。BC1500~BC771年。
台北。国立歴史博物館。2017年10月19日(木)。
貨幣の始まりは海貝であった。それぞれの貝の形は相似しているが、大小軽重があり、美麗で得難く、携帯保存が容易であるとして、交易価値の標準として用いられた。
その後、交通貿易の発達にともない、海貝は使用されなくなり、様々な貨幣が生まれた。
秦により統一されるまで、各地には地方色の濃厚な様々な貨幣が使用されていた。布幣、刀、銅貝、圜錢などがあり、主に銅の重量が交易の標準とされた。
BC336年、秦は銅銭の鋳造を国家で行うことを定め、円形方孔の半両銭を正式な貨幣と定めた。これが半両銭の起源である。重量が当時の度量衡で半両(12銖、1両 = 24銖)であることから半両銭と称された。BC118年、漢の武帝により五銖銭が鋳造されると、半両銭は廃止された。
AD621年、唐の高祖のとき、開元通宝が出現し、銭貨1枚の質量は1両の10分の1(約3.73g)となり、ここから質量の単位である「銭」が生まれた。同種の貨幣形式は清末まで続いた。
石貝。商(殷)~西周。BC1500~BC771年。
銅貝。商(殷)~西周。BC1500~BC771年。
銅貝。戦国時代。BC403~BC221年。楚国。
(左)節墨大刀銭。戦国時代。BC403~BC221年。斉国。
(中)斉大刀銭。戦国時代。BC403~BC221年。斉国。
(右)明刀銭。戦国時代。BC403~BC221年。燕国。
刀銭は、中国で用いられた刀の形状を模した青銅の貨幣で、刀泉とも表記する。
春秋戦国時代の斉・燕・越などで用いられた。狩猟・漁労用の小刀が原型とされ、形状から、尖首刀・斉刀・明刀(方首刀)・円首刀の4種類に分けられる。新の王莽が鋳造した貨幣(王莽銭)も、刀銭を模した形状をしている。同時代には各地で青銅貨幣が用いられており、趙・魏・韓などでは布銭、楚では蟻鼻銭、秦では円銭(環銭)が用いられていた。
新莽。大泉五十銅笵。重要古物。大泉五十。新莽。AD8~23年。
1923年河南省新鄭市鄭公大墓出土。
(左)大泉五十陽笵。長20cm,幅9.5cm。
(右)大泉五十陰笵。長19cm,幅10cm。
新莽時代の「大泉五十」の鋳型は陽笵と陰笵がある。陽笵は陰刻で篆書の反文「大泉五十」が刻まれ,陰笵は素面無紋である。鋳型の内部には左右に各一行の錢模が五枚ある。「大泉五十」の鋳型の完品の存世数は少ない。
銭貨の表面には、上に「大」、下に「泉」、右に「五」、左に「十」の4文字が刻まれているので「大泉五十」とよばれる。
行中書省50両銀錠。元。1271~1368年。
長13.5cm、重1930g。
元朝は馬蹄形の銀錠を元宝とよび,功績のあった将士に賜与した。この銀錠には、「元行中書省銀錠」、「元宝」、「行中書省」、「至元十四年」,「揚州」、「銷銀官王珪」、「秤驗銀庫子侯成」;左側有「重伍拾兩」、「庫官王仲方」,「鑄銀侯君用」などが陰刻されている。
至元(しげん)は、モンゴル帝国のクビライ(元の世祖)の治世で用いられたた元号で、至元十四年は1277年に相当し、揚州で鋳造されたものと分かる。
銀錠は、貴金屬の貨幣のため、熔解し改鋳されることがあり、遺存するものは少ない。至元年間に揚州で鋳造されたものはわずかに五件が残るのみであり、この銀錠の重量が最も重い。
日本では銀錠が馬の蹄の形をしていることから、馬蹄銀(ばていぎん)と呼ばれ広く用いられた。
行中書省は本来、前線における政治と軍事を統括するために設置された機関で、のちには地方統治の最高単位として設置した行政機関の名称となった。現在の地方名の省の語源である。
山西省太谷県50両税銀。清。咸豊年代。1851~1861年。
山西省祁県50両銀錠。清。同治年代。1862~1874年。