ホテルの前でタクシーを拾い、住所を見せて乗り込んだ。降りたのは川の傍の道路。方角がさっぱり分からない。タクシー会社の営業所が近くにあったので、大体の方向を尋ね、塀沿いの道路を歩くと、大通りに出た。地図上では安定宮の向かい側に位置しているので、安定宮の中へ入ると、敷地内は工事中のため寂しい限り。大通りに戻ると、歩道には屋台が並び、麺を啜る地元民で充満している。もう一度、川の方向の塀沿いの道に戻って、西側を注意して歩くと、何やら料理店らしきものが敷地の奥まった場所に見えた。そこが目指す「クン・アン・ディン」だった。夜なのに、店名を照らす照明やネオンがないので分からなかった。歩き方に「こんな所に」と、書いてあるとおりだった。
19時30分頃だったが、客はまばらだった。メニューの料金を見ると、高くはない。
バイン・ベオは小皿ごと蒸した米粉生地に干しエビをトッピングしたもの。ヌックマムを浸けて食べる。
ツルン・プリンとした食感は舌に心地よい。エビの美味さも凝縮されている。宮廷料理より美味い。
料理を堪能したので、徒歩でホテル・ミキへ帰ることにした。
20分ほど歩いてホテル・ミキへ帰った。往路はタクシーに乗ってかえって道に迷ったが、帰路は簡単だった。
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、拝庭・碑亭・段台状テラス・廟殿・円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋、の5つの要素から構成される。拝庭には左右に侍衛の石形や石象石馬が並び、円陵や石屋は多くの場合、前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴う。
明・清代に確立された中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画した。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
明・清代に確立された中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画した。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
トゥドゥック帝(嗣徳帝・在位1847~83)は阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君臨した。ベトナムが西洋の帝国主義に直面した困難な時期に王位に就いたことは彼を厭世的にし、隠居して詩を詠む仙境とするべく陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。
敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれている。帝廟は陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。
敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれている。帝廟は陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。
ミンマン帝廟へ移動。
ミンマン帝(明命帝・在位1820~41)は第二代皇帝で、王国の積極的な設計者であった。ミンマン帝廟は1840から3年間かけ造営されたが、帝は、1841年その完成を見ることなく落馬が原因で亡くなった。
周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と主要な建造物が一直線に並ぶ。
敷地は、主軸の左右を澄明湖と名付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂に各々楼閣を建てる優雅なものである。
時間がないので、代表的な帝廟二つのみを見学した。庭園的な静けさと豪華さが同居する素晴らしい建築空間を味わうことができた。
ホテル・ミキに帰り、1厖召蠕召砲△襯侫┗悗泙琶發い董▲瀬淵鷙圓の列車に乗った。