フエの名物料理店「クン・アン・ディン」。バイン・ベオ。2013年1月24日(木)。本日はフエからベトナム戦争の戦跡を巡るDMZツアーに参加し、夕方フエに帰った。フエはフエ料理で有名だ。宮廷料理は前日味わったので、今夜はフエの名物料理店「クン・アン・ディン」を狙った。
ホテルの前でタクシーを拾い、住所を見せて乗り込んだ。降りたのは川の傍の道路。方角がさっぱり分からない。タクシー会社の営業所が近くにあったので、大体の方向を尋ね、塀沿いの道路を歩くと、大通りに出た。地図上では安定宮の向かい側に位置しているので、安定宮の中へ入ると、敷地内は工事中のため寂しい限り。大通りに戻ると、歩道には屋台が並び、麺を啜る地元民で充満している。もう一度、川の方向の塀沿いの道に戻って、西側を注意して歩くと、何やら料理店らしきものが敷地の奥まった場所に見えた。そこが目指す「クン・アン・ディン」だった。夜なのに、店名を照らす照明やネオンがないので分からなかった。歩き方に「こんな所に」と、書いてあるとおりだった。
19時30分頃だったが、客はまばらだった。メニューの料金を見ると、高くはない。
バイン・ベオは小皿ごと蒸した米粉生地に干しエビをトッピングしたもの。ヌックマムを浸けて食べる。
ホテルの前でタクシーを拾い、住所を見せて乗り込んだ。降りたのは川の傍の道路。方角がさっぱり分からない。タクシー会社の営業所が近くにあったので、大体の方向を尋ね、塀沿いの道路を歩くと、大通りに出た。地図上では安定宮の向かい側に位置しているので、安定宮の中へ入ると、敷地内は工事中のため寂しい限り。大通りに戻ると、歩道には屋台が並び、麺を啜る地元民で充満している。もう一度、川の方向の塀沿いの道に戻って、西側を注意して歩くと、何やら料理店らしきものが敷地の奥まった場所に見えた。そこが目指す「クン・アン・ディン」だった。夜なのに、店名を照らす照明やネオンがないので分からなかった。歩き方に「こんな所に」と、書いてあるとおりだった。
19時30分頃だったが、客はまばらだった。メニューの料金を見ると、高くはない。
バイン・ベオは小皿ごと蒸した米粉生地に干しエビをトッピングしたもの。ヌックマムを浸けて食べる。
フエの名物料理店「クン・アン・ディン」。バイン・ロック。バナナの葉で包んで蒸したエビ。プルンとした半透明の皮に包まれている。
フエの名物料理店「クン・アン・ディン」。バイン・ロック。ヌックマムに浸けて食べる。
ツルン・プリンとした食感は舌に心地よい。エビの美味さも凝縮されている。宮廷料理より美味い。
料理を堪能したので、徒歩でホテル・ミキへ帰ることにした。
ツルン・プリンとした食感は舌に心地よい。エビの美味さも凝縮されている。宮廷料理より美味い。
料理を堪能したので、徒歩でホテル・ミキへ帰ることにした。
フエ大教会。ヨーロッパとベトナムの建築様式が混在する独特な外観をしたフエ大教会。内側からの光がステンドグランスを輝かせる夜景もなかなかのものだ。
20分ほど歩いてホテル・ミキへ帰った。往路はタクシーに乗ってかえって道に迷ったが、帰路は簡単だった。
20分ほど歩いてホテル・ミキへ帰った。往路はタクシーに乗ってかえって道に迷ったが、帰路は簡単だった。
フエ名物の麺料理店「ブン・ボー・フエ」。1月25日(金)。本日はダナン経由でホイアンへ移動する。ホテルに荷物をデポし、10時頃まで郊外にある阮朝の帝廟を廻ることにした。その前に朝食をフエ名物の麺料理店「ブン・ボー・フエ」で摂ることにした。ホテル・ミキからは徒歩で10分ほどの距離にあり、大通りに面して分かりやすい。7時40分頃に着いたが、バイクの客で店内は満席に近かった。
「ブン・ボー・フエ」の朝食セット。ポーク、ビーフ、エビのすり身団子が上に載っている。フランスパン付きで満腹になる。
トゥドゥック帝廟の見取り図。8時頃に店先からタクシーに乗り、トゥドゥック帝廟とミンマン帝廟を廻って10時までにホテルに帰ることにした。タクシー代は49万ドン(約2050円)。
皇帝陵は一般的に河か池を前面に持ち、拝庭・碑亭・段台状テラス・廟殿・円陵あるいは多重の周壁に囲まれた石屋、の5つの要素から構成される。拝庭には左右に侍衛の石形や石象石馬が並び、円陵や石屋は多くの場合、前方に一組の花表柱(オベリスク)を伴う。
明・清代に確立された中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画した。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
明・清代に確立された中国の陵制に倣う一方で、皇帝達は各々自らの趣味に合わせて陵を計画した。また、配置計画におけるフエの自然環境の巧みな利用も共通した特徴である。
トゥドゥック帝(嗣徳帝・在位1847~83)は阮朝の君主の中で最も長く35年に渡ってベトナムに君臨した。ベトナムが西洋の帝国主義に直面した困難な時期に王位に就いたことは彼を厭世的にし、隠居して詩を詠む仙境とするべく陵を調え、終生かつ死後の休息の地とした。
敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれている。帝廟は陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。
敷地は長さ1.5kmの牆壁に囲まれている。帝廟は陵と廟のふたつのコンプレックスに分かれるが、ここでは陵ではなく離宮として営まれた廟の方が中心となっている。
トゥドゥック帝廟。南の努謙門を入り、敷地の東半を占めるハス池の謙湖に沿って行くと湖に臨んで廟である謙宮が建つ。
トゥドゥック帝廟。池の正面の階段を登ると、皇帝を祀った寺があるが、皇帝が滞在用に使用した宮殿とされている。
トゥドゥック帝廟。ハス池を見下ろす。池岸には釣殿と涼しさを味わうための木造の建物スンキエム殿がある。
トゥドゥック帝廟。寺から池沿いに進んで階段を登ると、陵域に入り、拝庭には石象、石馬、石人が並ぶ。右側に石碑殿(碑亭)が見える。
トゥドゥック帝廟。石碑殿の中には皇帝の徳を称える石碑が建っている。
トゥドゥック帝廟。石碑殿の奥に石室がある。
トゥドゥック帝廟。石室前の石段と装飾タイル。
トゥドゥック帝廟。石室前から、入口方向を眺める。小さな池が造られている。
ミンマン帝廟へ移動。
ミンマン帝廟へ移動。
ミンマン帝廟。トゥドゥック帝廟から川に沿って南へ向かい、橋を渡って脇道に入り、左右に曲がって駐車場に着いた。ここから、帝廟まで5分ほど歩かされる。大池の岸辺に沿って進むと、石象・石馬・石人が出迎えてくれる。
ミンマン帝(明命帝・在位1820~41)は第二代皇帝で、王国の積極的な設計者であった。ミンマン帝廟は1840から3年間かけ造営されたが、帝は、1841年その完成を見ることなく落馬が原因で亡くなった。
周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と主要な建造物が一直線に並ぶ。
敷地は、主軸の左右を澄明湖と名付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂に各々楼閣を建てる優雅なものである。
ミンマン帝(明命帝・在位1820~41)は第二代皇帝で、王国の積極的な設計者であった。ミンマン帝廟は1840から3年間かけ造営されたが、帝は、1841年その完成を見ることなく落馬が原因で亡くなった。
周長2kmの牆壁に囲まれた長円形の敷地の主軸上には、大紅門、拝庭、碑亭、段台状テラス、顕徳門、崇恩殿を中心とする廟、明楼、新月池、円陵と主要な建造物が一直線に並ぶ。
敷地は、主軸の左右を澄明湖と名付けられた大池が挟み、その周りを囲む幾つもの丘の頂に各々楼閣を建てる優雅なものである。
ミンマン帝廟。石碑殿から入口方向を眺める。右に大きな池が見えている。
ミンマン帝廟。石碑殿の中には皇帝の徳を称える石碑が建っている。
ミンマン帝廟。門を抜けたり楼に上ったりする度に、訪問者の目の前に新たなパノラマが開け、徐々に深い懐ふところに抱かれるように進んでいく。
ミンマン帝廟。三日月型のハス池の橋の先に、古墳のような丘がある。これがミンマン帝の眠る陵である。
ミンマン帝廟。陵に登る石段。門は閉じられている。
ミンマン帝廟。陵に登る石段付近から入口方向を眺める。建物群が一直線上に建てられていることが分かる。
時間がないので、代表的な帝廟二つのみを見学した。庭園的な静けさと豪華さが同居する素晴らしい建築空間を味わうことができた。
ホテル・ミキに帰り、1厖召蠕召砲△襯侫┗悗泙琶發い董▲瀬淵鷙圓の列車に乗った。
時間がないので、代表的な帝廟二つのみを見学した。庭園的な静けさと豪華さが同居する素晴らしい建築空間を味わうことができた。
ホテル・ミキに帰り、1厖召蠕召砲△襯侫┗悗泙琶發い董▲瀬淵鷙圓の列車に乗った。