来遠橋のすぐ東にあり、ホイアンで一番関心のあるサーフィン博物館をまず見学した。
サーフィンSa Huỳnh 文化は、紀元前500年もしくは300年頃から紀元後100年頃、ベトナム中部を中心に分布した鉄器時代の文化である。最初に発見されたクアンガイ省沿岸の町サーフィンにちなんでサーフィン文化と名付けられた。
ホイアン周辺の歴史は古く、紀元前にまで遡る。古代東南アジアの海洋文化であるサーフィン文化は、紀元前数世紀から2世紀にかけて中部ベトナムで栄えていた稲作を伴う初期金属文化である。ホイアン市内だけでも、サーフィン文化の遺跡が50箇所以上発見されている。
サーフィン文化に続いて、2世紀から中部ベトナム一帯を支配していたのがチャンパ王国で、トゥーボン川流域には政治的な都としてチャキウがあり、上流には聖地としてミーソンが築かれ、現在のホイアン付近に経済の中心となる都市があったと考えられている。
サーフィン文化はベトナム考古史に出てくるが、旅行前の予習段階で興味が増した。理由は甕棺という葬制である。弥生時代中期、奴国の王都とされる福岡県春日市の須玖岡本遺跡や佐賀県の吉野ケ里遺跡では甕棺墓制が採用されている。海人族、東南アジア、中国南方からの文化的影響が考えられる。つまり、海洋民の文化である。
サーフィン文化の担い手は南シナ海の海洋民で、その主要民族チャム人は東南アジア島嶼民族と同じくオーストロネシア語族に属する。オーストロネシア語族は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族で、南島語族、マレー・ポリネシア語族と呼ばれていた。
台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、さらに東のハワイなど太平洋の島々に拡散したとされる。
台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、さらに東のハワイなど太平洋の島々に拡散したとされる。
日本語の母音の強い音韻体系はオーストロネシア語族との類似性が高い。また語を重ねる複数形の表現方法や一部の単語に関してオーストロネシア起源も指摘されている。日本語のこのような特徴は南方系の言語集団(オーストロネシア語族)とシベリアから南下した北方系の言語集団が縄文時代に日本列島で出会い、混交したからであるとする説が唱えられている。
フィリピンの「カナライ文化」は、甕棺葬、土器の幾何学文様、装身具の組み合わせなどサーフィン文化との類似点が多く、南シナ海で結ばれた諸地域との共通の文化圏を想定することができる。また、台湾、フィリピンなど南シナ海東部は、石器時代からオーストロネシア系の濃い海域であり、ベトナム中部にもサーフィン文化期には、既にオーストロネシア系の人々が出現していたものと考えられる。
サーフィン文化は甕棺墓とそこに副葬された装身具類を指標とする。サーフィン文化の甕棺墓は、中部と南部の沿岸及び大型河川中下流域に分布するが、磨製石斧が副葬された墓が存在する中部海岸が発祥地である。
甕棺葬という葬制は、東南アジアにおいて新石器時代後期の金属器が出現する以前から集団墓地の中に見られる。そこでは甕棺は主に子供の埋葬に使われている。ベトナム中部のサーフィン文化では甕棺葬が普遍的であり、大人も子供も甕棺により埋葬されたと考えられており、出土場所は主に砂丘上に分布する埋葬遺跡である。
甕棺葬に関しては、中部北域や中域で鉄器時代以前のものが確認されており、長い前史を持つ伝統的埋葬形態であると理解されている。これは土坑墓や舟形木棺墓を伝統とするドンソン文化やそれ以前の文化伝統と大きな違いを見せており、単純化するならオーストロアジア系語族のキンやムオン族の祖集団とオーストロネシア系語族のチャム族の祖集団の差と考えてよい。
甕棺は長胴形または卵形の甕棺と帽子形の蓋が組み合わさっている。
当文化にも南北の地域差が存在し、中部の北域から南域の北端部(カインホア省)までは、寸胴筒型の甕棺が主となり、中部南域から南部東域では球形の甕棺が主となる違いが認識されている。
球形の甕棺。
球形の甕棺の文様。
サーフィン文化期の海上交易の状況を示すものとして、多量のガラスと高価な紅玉髄とメノウ
ビーズが発見されている。
ガラスの鉱物学的分析とビーズの形の研究によると、これらの多くがインドで製造されたもの又はインドの技術と原材料を用いて東南アジアで加工したことを示している。
有角式耳飾りは玦状耳飾りは三方に独特の突起がある。
玦状耳飾りは中央に穴をあけ,外縁からこの穴に切れ目を入れたもので、縄文時代の日本でも出土している。
玦状耳飾りはタイ中部、フィリピンのルソン島、台湾南東のランユー島など広い範囲から同種の耳飾りが出土しており、ベトナム中部との直接的な関係を見ることができる。
また、サーフィン文化集団が、ドンソン文化の銅鼓を仲介的に各東南アジア地域へ運んだという仮説があり、サーフィン文化の玦状耳飾りが、台湾、フィリピン諸島、タイ、ボルネオ、マレー半島にまで分布している状況、マレー半島の北域に玦状耳飾りと銅鼓の両方が出土している事実などは、その仮説を裏付けるものと考えられている。
紀元前一千年紀末には「海のシルクロード」が成立し、南海交易が発展した。南海諸国にとっては中国の発達した文化や巨大な市場が大きな意味を持ち、また、中国側にしても支配階級や都市住民などが香薬その他の熱帯産品、西方の珍奇な品々を不可欠としていたのである。
ホイアンでも一番の名所なので、欧米人観光客も多い。
広南阮氏はホイアンに外国人居住区をつくり治外法権を許すなどの保護を与えた。こうした背景の中で日本人町は誕生する。徳川幕府による朱印船制度が始まった1604年から鎖国政策が実行された1635年までの約30年間に、渡航した朱印船は少なくとも356隻を数える。日本人町には最盛期には数百人の日本人が住んでいたようである。しかし、幕府による鎖国令により海外渡航が禁止されると日本人町は次第に衰退していった。
17時30分頃になったので、ホテルへ帰った。
市街地北のホテル街に近い通りにあるので、ホテルから10分余り歩いて18時30分頃店に着いた。
看板には日本語で「ホワイト・ローズ」と書かれている。中に入ると、やはり日本人の若者たちがいた。
海老づくしはうれしい。2品で12万ドン(500円)。
翌日はミーソン遺跡とホイアン市内の見学ののち、ダナンへ。