世界遺産ミーソン遺跡。2013年1月26日(土)。ミーソン遺跡はホイアンから南西へ約40キロに位置し、2世紀から中部ベトナム一帯を支配していたチャンパ王国の聖地である。ホイアンを河口とするトゥーボン川流域には政治的な都としてチャキウがあり、上流には聖地としてミーソンが築かれた。
チャンパ王国はチャム族の王国で、2世紀末に建国し林邑の名で呼ばれた。 3世紀末までにインド文化を取り入れた社会を形成した。
7世紀に占城国となり、11世紀以降に隆盛を誇ったヴィジャヤ王朝は北ベトナムの大越及びカンボジアの真蝋・アンコール朝としばしば戦争を行い、13世紀の元のクビライの侵攻以降徐々に衰退していった。15世紀の明軍撃退後、チャンパは南中部のヴィジャヤ王朝と中部南端のパーンドゥランガ王朝に分裂する形で再興されたが、1485年ヴィジャヤ王朝は大越黎朝に滅ぼされた。パーンドゥランガ王朝も1832年明命帝により、旧王が処刑されて終焉した。
チャンパ王国はチャム族の王国で、2世紀末に建国し林邑の名で呼ばれた。 3世紀末までにインド文化を取り入れた社会を形成した。
7世紀に占城国となり、11世紀以降に隆盛を誇ったヴィジャヤ王朝は北ベトナムの大越及びカンボジアの真蝋・アンコール朝としばしば戦争を行い、13世紀の元のクビライの侵攻以降徐々に衰退していった。15世紀の明軍撃退後、チャンパは南中部のヴィジャヤ王朝と中部南端のパーンドゥランガ王朝に分裂する形で再興されたが、1485年ヴィジャヤ王朝は大越黎朝に滅ぼされた。パーンドゥランガ王朝も1832年明命帝により、旧王が処刑されて終焉した。
前日、ホテルでミーソン遺跡ツアーを予約した。料金は6ドル。入場料10万ドンは現地で支払った。早朝、市街地を出発したバスは2時間ほどで、現地に到着。ミニバスに乗り換え、遺跡にアクセスする。
遺跡は4世紀から木造の祠堂が建てられ、現在は8世紀から13世紀までのレンガ造の祠堂群が残っている。
遺跡は4世紀から木造の祠堂が建てられ、現在は8世紀から13世紀までのレンガ造の祠堂群が残っている。
ミーソン遺跡。宗教は主にヒンドゥー教シヴァ派が信仰されたといい、壁面には女神像が彫られている。
ミーソン遺跡。壁面に彫刻された女神像群。
ミーソン遺跡。祠堂のいくつかには、彫刻が展示されている。ベトナム戦争では、解放軍の基地として使用され、アメリカ軍が爆撃や砲撃を加え、遺跡の崩壊が進んだ。
ミーソン遺跡。彫刻が展示されている祠堂。
ミーソン遺跡。接着剤を使わず、擦り合わせて接合されたレンガ建築の技術が説明されている。
ミーソン遺跡。ヒンズー彫刻。
ミーソン遺跡。遺跡内を流れる川。
ミーソン遺跡。崩壊した祠堂が丘状に残っている。遺跡群は四方を山に囲まれた盆地にある。
ミーソン遺跡。ベトナム人ガイドとリンガ。
ミーソン遺跡。チャンパ文字が書かれた石碑。背後は修復中の祠堂。
ミーソン遺跡。異様な形をした聖山マハーパルヴァタが北に聳える。
なお、ミーソン遺跡から発見された美術品などは、ダナンのチャム美術館に展示されている。
見学を終え、13時過ぎに、ホイアン市街に帰った。ホテルでザックを受け取り、市内見学をしてダナンのチャム美術館経由でホテルへ向かうことにする。
なお、ミーソン遺跡から発見された美術品などは、ダナンのチャム美術館に展示されている。
見学を終え、13時過ぎに、ホイアン市街に帰った。ホテルでザックを受け取り、市内見学をしてダナンのチャム美術館経由でホテルへ向かうことにする。
ホイアンの名物料理店「チュンバック」。来遠橋からチャンフー通りをまっすぐ東へ歩いた。歩き方に「カオ・ラウ」がおいしい店と書いてある。どこまで歩けばいいのか分からず、見つけ出すのに苦労した。チャンフー通りに面した伝統的な店構えだった。中は広くはない。
ホイアンの名物料理「カオ・ラウ」。三重県の伊勢うどんがルーツで、日本人が伝えたといわれる。米粉の麺。熱いのと冷たいのを1品ずつ注文した。二つで7万2千ドン(300円)。
ホイアンの名物料理「カオ・ラウ」。もちろん、伊勢うどんを食べたことはあるが、それよりも美味。触感がなかなかいい。讃岐うどんなみに美味い。感動した。
食後は、チャンフー通りをさらに東へ歩いて、貿易陶磁博物館へ。
食後は、チャンフー通りをさらに東へ歩いて、貿易陶磁博物館へ。
貿易陶磁博物館。ホイアンの木造民家の町並みの美しさが世界遺産としての魅力といわれる。この建物は博物館であるが、建物番号はチャンフー80番と付けられている2階形式の代表的な町屋である。
貿易陶磁博物館。昭和女子大編集制作の図録によると、以前の居住者は当時79歳で、「私は3代目で、祖父は中国福建省から移住し、漢方薬を香港から買って卸売りをした。祖父の奥さんは中国人で。祖父が死ぬと中国へ帰った。家の2階は倉庫で、水害の時の避難場所として使う。」と語っている。
貿易陶磁博物館。ホイアン周辺で発掘された15世紀から17世紀にかけての陶磁器を展示している。別名「海のシルクロード博物館」と呼ばれている。
貿易陶磁博物館。展示されている陶磁器は主に、当時栄えていたとされる中国人街及び日本人街があったと伝えられている場所から出土したもの。また、チャム島沖の南シナ海で沈没した船から引き揚げた遺物も展示している。
貿易陶磁博物館。中庭。華僑は祀ることが好きだ。
貿易陶磁博物館。後ろ家2階から前家と中庭を見下ろす。サーフィン博物館の建物も同様だったが、通りに面した前家と奥の後ろ家の2棟が階上・階下で繋がった構造をしている。
貿易陶磁博物館。17世紀末頃の肥前焼。陶磁器の中には、ヨーロッパの王宮貴族に人気があった日本の古伊万里焼や肥前焼もあり、当時、日本とホイアンとの間に交易関係があったことを物語る。
貿易陶磁博物館。ホイアン沖のチャム島での沈没船から引き揚げられた遺物。15~16世紀のベトナムおよび中国原産の陶磁器。
貿易陶磁博物館。ホイアン沖のチャム島での沈没船から引き揚げられた遺物。15~16世紀のベトナムおよび中国原産の陶磁器。
安土桃山時代以降、日本の茶人の間で珍重された安南焼のようだ。
安土桃山時代以降、日本の茶人の間で珍重された安南焼のようだ。
貿易陶磁博物館。ホイアン沖のチャム島での沈没船から引き揚げられた遺物。15~16世紀のベトナムおよび中国原産の陶磁器。
茶器でいえば、香合、花入れなどに見立てられた陶磁器群。
茶器でいえば、香合、花入れなどに見立てられた陶磁器群。
ホイアンの川端。アンホイ橋から西を望む。いにしえの国際交易港ホイアンはダナンの南方約30kにあり、南シナ海に注ぐトゥボン川の河口に位置する古い港町である。
8 ~ 9世紀頃にはイスラム商人が盛んに中国や東南アジアに来航するようになったこともあり、東西交易の要衝として諸外国と活発に交易をしていた。9 世紀中頃にアラブ商人が書いた書物には沈香(香木)が輸出されていたという記録が残されており、これを裏付けるかのように、遺跡からは当時の物と見られるイスラム陶器やガラス片が出土している。これらは当時のホイアン地域が中国とインド、アラブを結ぶ交易都市として隆盛し、海のシルクロードの重要な中継地であったことを示している。
タクシー乗り場に行くため、来遠橋の南のトゥボン川に架かるアンホイ橋を渡るところ。
8 ~ 9世紀頃にはイスラム商人が盛んに中国や東南アジアに来航するようになったこともあり、東西交易の要衝として諸外国と活発に交易をしていた。9 世紀中頃にアラブ商人が書いた書物には沈香(香木)が輸出されていたという記録が残されており、これを裏付けるかのように、遺跡からは当時の物と見られるイスラム陶器やガラス片が出土している。これらは当時のホイアン地域が中国とインド、アラブを結ぶ交易都市として隆盛し、海のシルクロードの重要な中継地であったことを示している。
タクシー乗り場に行くため、来遠橋の南のトゥボン川に架かるアンホイ橋を渡るところ。
ホイアンの川端。アンホイ橋から東を望む。19世紀末に港は衰退し、18世紀末に建てられた古い町並みと賑わいは残った。現在のホイアン旧市街は海からかなり離れた場所にある。水深が浅そうな川沿いに簡単な岸壁が残る姿からは、この町がかつては国際的港湾都市であったことを想像することはできない。
15時頃タクシーに乗り、ホイアン北の郊外にある日本人谷弥次郎兵衛の墓を経由してダナンのチャム博物館へ向かった。
15時頃タクシーに乗り、ホイアン北の郊外にある日本人谷弥次郎兵衛の墓を経由してダナンのチャム博物館へ向かった。